厨二病日記

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誰かを助けるのに理由がいるかい?

導入

 

時折ぼんやりとする時間が来ると、インターネットに入り浸りだった学生の頃を思い出します。

 

 

匿名掲示板でゲームの名言を挙げていくなんて話題を見ることはザラにありました。

 

そんな中で見つけたのが、今回の表題にもした「誰かを助けるのに理由がいるかい?」です。

 

 

このセリフは非常に考えがいがあって、小学生に与えられた輪ゴムのようなものです。1時間から2時間ほど脳ミソをこねくれる、そんなセリフなんです。

 

ただ、先んじて申し上げておきますと、本記事はあくまでも個人的な意見や解釈のひとつです。

 

正直な話、このセリフの出どころであるFF9は殆ど未プレイに近い状態ですので、そのへんはご留意頂きたいです。(勿論ゲームの内容には触れません)

 

では何をそんなに考えられるのか?それをこれから書いていきたいと思います。

 

誰かを助けるのに理由がいるのか?

 

まず、このセリフに対してシンプルに答えるのであれば「いらない」となります。

 

 

例えば、私が溺れている1人の人を確実に助けられる能力を持っているとして、1人の人間が目の前で溺れていたら助けます。

 

善人ぶるつもりはないですが、多くの人が基本そうすると思います。はい、結論に辿り着きました。

 

 

とはなりませんよね?

 

 

ここからが本番なんです。

 

もう気がついていると思いますが、私に持たせた能力は1人の人を確実に助ける能力です。

 

では複数人が溺れていたらどうするのでしょう?

 

ここに問題が生じるから、「誰かを助けるのに理由がいるかい」に対して考えられることは多いんです。

 

それではこの問題について、時間がある方は考えていきましょう。

 

誰かを助ける時、助ける相手を選ぶ時もある

 

偉い人は言いました。

 

「人生とは選択の連続である」

 

まさにその通りです。そして、私たちが行う選択には切っても切れない理由があります。因果律からは逃れられないのです。

 

 

困ったことになりました。「誰かを助けるのに理由がいるかい」に対する答えは「いらない」なのにも関わらず。

 

助ける能力の限界困っている人の数が上回ると、助ける人を選ばなければなりません

 

それも、理由をつけてです。

 

 

…凄いことではないですか?

 

おそらく、「誰かを助けるのに理由がいるかい(いらないでしょ?)」は正で、だからこそ名言なのです。私も一分たりともこれが名言であることに疑いはありません。

 

 

しかしながら、私が1人の人を確実に助けられる能力(2人以上助けようとすると助けようとした人と確実に共倒れる)しか持たず。

 

目の前で2人以上が溺れていたら、…困ります。

 

 

では人は、どのような選択をするのか?どんどん色んな妄想を膨らませていくとしましょう。

 

貴方を助けたのには理由があります。

 

いきなり悲しい見出しです。

 

 

ふと、昔なにかの記事で「ラブストーリーは突然に」のサビが何も具体的には言ってないから、共感性が高くなると見たのを思い出しました。

 

「誰かを助けるのに理由がいるかい」はそんなふうに曖昧な部分を含んでいるのです。

 

それは悪いことではないです。誰が誰に言ってもタイミングがあっていればかっこいいのが共感性の高い名言とも考えられるのです。

 

 

しかし、ここはひねくれ者の世界。

具体的な場面設定することで助ける理由を生み出してしまいましょう。

 

 

1.可愛い女の子とおじさんが溺れている。

 

 

おそらく男性はほぼ全員女の子を助けるケースです。歯切れの悪い感じなので見て見ぬふりという方も居るでしょうが、二者択一は全てそうなので今後割愛します。

 

助ける理由下心が大半、ムッツリさんは若い方を助けるとかそんなところです。

 

例外中の例外は、その日受けた絶対受かりたい就職面接採用担当おじさんです。

 

 

今回のケースから、人は誰かを助ける時に自分にとって有益な方を考えて助けていることがわかります。

 

2.おじさんと前科持ちおじさんが溺れている。

 

 

この場合はおじさんを選ぶ人が大多数かと思います。

 

先程と異なる点は前科持ちおじさん助けられない理由を持っていることです。

 

この場合おじさんには可愛い女の子のように、助けるにあたり正の要素を持つわけではなく、今後の展望に差がほとんど無いのですが社会にとって有益な方を選んでいるわけです。

 

ちなみに最初は指名手配おじさんにしていたのですが、警察に突き出して金を得るとかいう賢い奴が嫌いなので変更しました。

 

3.よく知っているおじさんと見知らぬおじさんが溺れている

 

どのようによく知っているなのかでケースバイケースですが、基本はよく知っている方を助けるでしょう。

 

毎日挨拶を交わすくらいの知り合いだとして、その人が目の前で死んだら寝覚めが悪いです。

 

この場合は、自分に生じる不利益を回避するために助けるのです。

 

4.好きなおじさんと嫌いなおじさんが溺れている

 

流石に大多数は好きなおじさんを助けます。興味深いことに、嫌いなおじさん助ける理由が殆ど浮かびません。

 

その他の要素が殆ど等価の場合、人は好き嫌いで助ける方を選ぶと言えます。

 

このケースから興味深い発見がありました。嫌いな人間助けるのには理由が必要だと自然に考えたことです。

 

私は先述の通り「誰かを助けるのに理由がいるかい」を匿名掲示板でしか知りません。

 

ですが先程の発見を頭に入れてこのセリフが成立する場面について考えると、助けられる方には助けられるような理由がほとんど無いのでは?と予想できます。つまり…

 

 

5.死んでも仕方ない悪人が1人溺れている。

 

 

これを考えるべきでしょう。

 

誰かを助けるのに理由はいらないはずなので、間髪入れず助けるべき状況です。

 

しかしながら、本当にそうでしょうか?

 

悪人は悪因の報いにあって溺れ死ぬ手前です。道理に従っての裁きと言え、合理主義者の判断は助けないと言えます。

 

つまり、「誰かを助けるのに理由がいるかい」非合理的なのです。

 

この名言、実はブラック美談に近い側面があるのではないかと私は思います。流石に怒る方もいるかと思いますが、道理をねじ曲げてリスクを取るわけですから、少しは腑に落ちる話になっていると思います。

 

加えて少し踏み込むと、日本人は道理をねじ曲げてリスクを取る話が心の奥底で好きなのではないかと考えられます。

 

 

勿論、私もブラック美談には否定的です。

 

 

ただ、もし道理をねじ曲げて人命を救う選択があるならば、そこには判断の合理性だけではかれない美しさが生じるのです。

 

 

重ね重ねになりますが、道理をねじ曲げて「人を拘束」したり等の不当行為については不支持です。ここ、重要です。

 

 

さて、話が長くなったのでそろそろまとめに入りたいと思います。

 

総括

 

私の意見では「誰かを助けるのに理由がいるかい」は道理を超えた「圧倒的な善」といえます。

 

助けるという行為は本質的に善で、状況を合理的に考えると助けないような状況においても助けるということ、これが胸を打つ善意を生み出していると考えます。

 

これを踏まえ現代に目を向けてみると、人は合理的になりすぎているように思えてきませんか?

 

時代と合理主義については別記事で語りたいので深くは述べませんが、中年の方が昔は良かったと言う理由のひとつが合理性至上主義の進行にあるという予測が私の中には生まれました。

 

非常に興味深い収穫だと思っています。

 

 

──いかがでしたか?切っ掛けは何気ないネットサーフィンで見たゲームの名言でしたが、考え事をするには充分な素材だったと思えます。

 

 

人は合理的に考えられる生き物ですが、だからといって非合理であることを盲目的に批難するのは難しく、それは道徳的行いや人の温かみなどと言った形而上学的なものを心に携えているからです。

 

 

かく言う私も大学生をしていた頃は利己的な合理主義に傾倒したものです。自分が論理的に正しいとしたことが正しくあらねばならない、自分にとって合理的であれば良果に必達するなどといったようにです。

 

 

流石に過去の私では人としても問題がありますが、誰もが異を唱えない客観的かつ合理的な判断ができる合理主義者は必ず正しいのでしょうか?

 

 

おそらく、違うと思います。

 

 

だって、誰かを助けるのに理由はいらないのだから───。