厨二病日記

取り敢えず患った不治の病が厨二病でよかった Twitterは @Pott0N_mush

人は皆つかの間の幸せを信じて

導入

 

悔しいことにこの記事を書く前か、或いはもう書いていた時にです。

 

私は前回の記事で挙げた。合理主義と時代について考えてまとめていました。

 

しかしながら、情報収集段階で同じような記事を見つけてしまったのです。

 

なので、それについては要約します。

個人主義、合理主義、時代、目的

・かつてはモノがなく時代そのものが豊かになるという目的を持っていた

 

団塊世代は豊かになるという目的に乗っかって仕事してたから悩む暇がなかったり非合理(理不尽)を受け入れなければならなかった。

 

・実際にある程度豊か(物質的)になった。しかし、団塊世代はかつての目的を捨てられなくなっていた。

 

・ある程度豊かな時代には(西洋に追いつく!のような)それ自体が持つ大目的がなくなった。それは理不尽を耐える理由を失ったに等しい、そんな若者が気骨のないように見えたため新人類と呼ばれたのではないか?

 

新人類の登場以降は大体同じような方向性で名前がついてる(少しずつ個人主義が進んでいる)のも時代が持つ目的喪失に原因があると思える。

 

・ではゆとり世代バカなのか?目的なき時代、親世代がリストラもあり安定志向が流行って、やりたくない仕事をこなすだけなところは悪い。しかし飲み会を断る個人主義は、見方を変えれば合理的でもある。

 

・結局、合理性に拘るというのは人の温かみとか昭和の良さみたいなものとはかけ離れている。世代間の温度差は必然。

 

・これからの時代、個人として自分の人生に目的を立てないといけない。

 

・目的を達するうえで既成の社会に入る時は参加者の生きた時代を考慮して非合理に対応していくべき。

 

というものでした。

 

自分用のメモのようになりましたが、なにかの参考になればと思います。

 

さて、そろそろ表題に戻って話をしようと思います。

 

 

人生は長いのか〜Is life long?〜

 

 

歳をとると1年の体感が短くなります。これはジャネーの法則という心理学的にも確かなことです。

 

加えて人生の半分が20歳までに終わるという心理学的な人生のデータもあり、アラサーの自分にとってそれは虚しいことです。

 

しかし新しい経験を積み重ねることで、これに抗うことは可能で、私自身新しいことに挑戦し続けられたらと思って生きています。

 

 

それとは別に、人生は本質的に長いのか?という疑問が私にはあります。

 

私はよく永遠の愛が指す「永遠」って80年くらいじゃない?みたいな水差し野郎になるのですが、正直なところ永遠って死ぬまででしょうと思っています。

 

知覚の限界と言いますか、永遠の本質は人にとって支配できないものであり、永遠に+動詞というのは不死者にしかできないことです。

 

 

つまり、人間は生きている範囲しか支配できないのです。

 

そして、時空の本質は人生より遥かに大きい。

 

もし時空が我々より遥かに巨大な生物なら、我々というのはその表面や体内で起こるほんの少しの代謝でしかないのかも知れません。

 

或いは、私たちが量子という極小さな生物にとっての宇宙である細胞の集まりということも、あるかもしれない。

 

 

少し話が逸れましたが、時空にとって人生は一瞬ということです。

 

 

世間体を気にすると

 

 

こうしてインターネットで「俺は厨二病だ!」と予防線を張って言いたいことをまとめだすと、かなり気持ちいいです。

 

社会は、厳しくないと自分が苦労してる劣等感に耐えられない人達によって意図的かつ不必要に厳しくなっていて、不自由です。対して、インターネットは自由です。

 

自分が苦労してる原因は、殆ど多くの場合、自分にあります。例外を名乗れるのはルイ17世クラスの人です。現代日本人には滅多ないことでしょう。

 

 

閑話休題、現代の日本に住む多くの人が苦しむ原因、それは世間体です。

 

歳を取れば取るほど世間体という悪魔が人生を侵食し守りに入らせるというのを地肌で感じます。

 

私の話を挟むと独り身にとっては最早、何を守りたくて守りの人生なのか意味不明です。

 

 

というわけで少し話を戻して、混ぜましょう。

 

つまりそれは…

 

時空にとって人生些末なことで、世間体シミに等しいものだということです。

 

天文学的確率でシミとより小さな点が重なっているだけのことだとしたら、世間体から解放される術はそう少なくないかもしれません。

 

このブログを書いている間、私が世間体から解放されているわけですから、おそらく本当にそうです。

 

 

私のこのブログを読みうる人の中には知人がおり(アクセス解析によると読まれてる可能性0ですが)、恥となることもありえます。

 

しかし仮にこれを読まれ「いい歳こいて」と言われたとして、人生にとってかすり傷にも満たないわけですから、引き換えに自分を解放出来ていることで恥はペイされると言っていいでしょう。

 

 

 

とにかく人生の恥はかき捨てなのです!

 

 

 

とはいえ、恥をかいたことで知っている世界の8割くらいが私を否定したら、時空にとって些末なことで人生の一瞬であったとしても苦悩すると思います。

 

特にいじめ問題は異質な例で、世間体を重んずる心は必ずしも否定しきれません

 

ただ、いじめが起こるのは狭い社会です。可能であれば逃げましょう。逃げるは恥だが役に立つというドラマも流行りました。

 

 

 

つまり現代は恥のかき得です(?)。気づいた人から自由になります。

 

 

冗談はさておき確かに言えることは世間体に囚われすぎず、早いうちから自分を解放することが大事ということです。

 

 

自由意思の選択により沢山恥をかいて、逃げ回るのはきっと楽しい人生だと思います。

 

 

総括

 

ここまでをできるだけ簡潔にまとめます。

 

自分を解放するのは大事。

 

自己の解放に必要なのは、世間体というサイズではなく、時空の本質というサイズから自分の人生の長さを見て、恥をかくことに対し些事だと言える考え方。

 

世間体や狭い社会に囚われないことも大事。

 

無限と観測下が時空全体と主観的全世界にそれぞれ結びつき、目の前の問題に対しては主観的全世界で考え絶望しそうな時は時空全体を考慮したら些事と思うことができ救われる。

 

 

といったところでしょう。

 

 

さて折角厨二病なのですから、この処世法に独自の名前をつけようと思います。

 

 

これすなわち、万象些事の心得と呼べるでしょう。

 

 

万象が些事なれば不倫のような過ちを犯しませんし、恥ずかしがって取り組まなかったことへの後悔はなくなります。

 

私は可能な限り後悔の少ない人生を送るために、自らに関わることの多くは些事と捉え、だからこそ全てを自由意思で選んでいきたい、そう思っています。

 

ここまで読んでくださる方がいらっしゃるなら誠に有り難うございます。

 

なにかの役に立てばと思います。

 

 

それではつかの間の幸せを信じて