厨二病日記

取り敢えず患った不治の病が厨二病でよかった Twitterは @Pott0N_mush

信じる奴が正義(ジャスティス)

導入

 

皆さん(数名)はマイケル・サンデルという方をご存じですか?

 

低学歴な私が名をあげるのも恐縮なハーバード大学の教授です。NHKでもハーバード白熱教室で取り上げられているので知ってる人もいると思います。

 

 

正義についての講義は熱のこもった議論になっていたと、私は記憶しています。

 

一方で、水差し野郎の私はこうも言い出したのです。「仮にこれを日本の高校生が聞いても、受験に向けて有意義ではない」と。

 

 

確かにそうではないでしょうか?

 

つまり、日本の教育では正義についてディスカッションし、考えを練り上げていく楽しい時間よりも既存の問題と既存の解決法を記憶するため、単純に反復し苦労する時間の方が尊ばれていると考えられるのです。

 

私見ではこれが労働生産性の低さに繋がっていると思います。

 

頭を使うことが苦痛だと学校教育で習っているようなものですから当然です。

 

 

しかし、今回それは問題ではありません。私にとって社会の問題は扱うに大きすぎるからです。

 

そういうわけですから、テーマは正義です。

 

 

それでは今回も私の暇つぶしにお付き合いください。

 

 

正義ってなんぞや?~What’s justice~

 

正義の本質は、先程紹介したマイケル・サンデルさんがより正確に示しています。

 

そのためこの記事では正義について水差し論やそもそも論で切り込んで、私の考え方を示したいと思います。

 

 

無知の知で有名なソクラテスですが、彼も道行く人に問うたと言われる。

 

「正義とは何か?」

 

 

これはソクラテス自身がわからないことを知っている人探しをしていた時の問だそうです。

 

 

つまり、正義の本質ソクラテスにも解けない謎なのです。

 

 

何故でしょう?

 

昔、私は大学の一般教養で意味論という科目を受講していました。そこで言葉の意味は意味要素に分解できると聞いたのですが、これはとても興味深く有意義でした。

 

例えば「母」は「雌」「子持ち」「生物」などに分解できるということです。

 

 

この分解とはまるで言葉を素因数分解するようなものです。つまりは素数ならぬ素単語があるといえます。

 

この場合、素単語のように振舞う「雌」は「母」のもつ普遍的な性質の一つであり、本質です。

 

 

「雌」には「母」でないものも含まれます。よって言葉としては「雌」の方がより曖昧です。素単語は定義する範囲が大きく曖昧なものと言えます。

 

 

おそらく「正義」「善」とか「公正」などの意味要素に分解できそうなのですが、これらは主観的な概念で、「雌」のように客観的な性質を指示していないのです。

 

だからこそソクラテス程の知者でも正義とは何かの正確な答えには辿り着けなかったのだと思います。

 

 

 

…せめて自分の名前を意味要素に分解したら「正義」の要素が列挙されるような人になりたいものです。

 

正義の対岸~Interbeing~

 

 

私たちが「右」について知ろうと思う時、切っても切れないほど重要な存在があることに気付かされます。それは「左」です。

 

何気なくつけたテレビ番組に出ていたティク・ナット・ハンという僧侶は言っていました。

 

蓮の左端を無くそうと切り落としても、左端消滅しません。それは右端があり続けることでその存在を支えているからです。と

 

 

これは目からウロコが落ちる話です。では自分は?と問いかけると無数の支えを感じることができます。

 

この考え方は「インタービーイング(相互共存)」というものです。

 

 

これを正義に当てはめると、まずは「悪」が浮かんできます。ただ、私の考えでは「悪」と対立しているのは「善」です。

 

要素の一部としか対立しないために「正義の反対は悪じゃない、また別の正義なんだ」という名言も生まれています。

 

 

支えとしての他の意味要素も「道徳的」「合理的」「正しい」等個人の感性に依存するものや「法的」といった地域に依存するものです。(私は意味論の専門家でないため分解の仕方に問題がありえます。)

 

インタービーイングの考え方からフォーカスしても正義という概念曖昧です。

 

 

正義という言葉を建築物に見立てると、その土壌はぬかるんでいて、基礎がしっかりしていないところに建てられたものだと言えます。

 

 

こうして考えると子供の頃は善いものとして正義を信じていましたが、それは実にあやふやなものであったのだと思います。

 

 

 

正義の決定権

 

厨二病は一生治らないといいます。しかし、厨二病との付き合い方を考えることで、その病徴を出さずに済ませられます。

 

 

正義という曖昧な概念も一生解決はしないものです。だからこそ事を判断する時、都度試されることになるのでしょう。

 

 

フランシス・パーキンズのように政界で事を成し善き人として後代に評価される人は良い正義観を持っていたと言われたりします。

 

このことから人生を通して行った選択が、正義的であるか?それが結果とともにその人の正義観となって、死によって定まると言えます。

 

 

 

不確実な正義の決定権は少なくとも未来にあり、現在は過去の正義のみを分析できる場です。

 

 

革命テロでないのは結果論であるようにです。

 

 

いまを生きている我々には道徳や公正さに対するベストを尽くすことしか出来ません。

 

 

今をひた走る我々に正義が追いつくのは先のことなのです。

 

 

総括

 

正義曖昧です。そして、今わかることでもありません。

 

いえ、これもまたおそらくです。

 

稲妻が走るような正解を示すこともできず。

 

より素晴らしい正義の考え方はマイケル・サンデルさんが示すことでありましょうが、少なくとも私の思う正義は、正しいと信じて頑張ることです。

 

 

今回もここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます。

 

 

明日からも正しいと思うことを信じて生きていきしょう。

 

 

信じる奴が正義、です。