厨二病日記

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学校へ行こう!~ルールの不思議~

導入

 

社会人の皆さんは、社会に出てからこう思ったことがあるのではないでしょうか?

 

 

「学校へ行きたい!」

 

 

理由は様々と思います。

 

 

例えば、男所帯の職場で可愛いあるいは美人と言えば既婚、出会いが欲しい。

 

単純に仕事から逃げたい

 

或いは仕事で使う知識を得たいという、意識の高い動機もあるでしょう。

 

 

厨二病の私も、直接的には仕事で使わない哲学への理解を深める時間が欲しいので最近は大学に行きたいです。

 

私が大学院を出て、社会人となって数年が経ちましたが、当時なかった学問する心今さら湧いてきたのだから残念なものです。

 

 

副題にルールの不思議と付けましたから、今回は法律の話です。

 

もちろん法律自体はよく知りませんので語りません。どうして法を守るのか?どうして法はあるのか?という中学生がこじらせたような話です。

 

 

それでも日本国の法律ともなると私にとってスケールが大きいです。

 

そこで学校の話をしました。

 

 

学校という小さな社会には謎の法律があったかと思います。

 

そう、校則です。

 

 

今回は校則を利用して先の命題について考えていきたいと思います。

 

 

校則による拘束

 

日本人ならば誰もが学校という小さな社会に籍を置いていたことはあると思います。

 

その集団秩序をもたらし知性と教養の習得に害なす戒めるのが校則です。

 

 

少々真面目ぶりましたが、皆さんは校則を守ってましたか?

 

このような内容のブログと知りながら、訪れて読んでくださる方々は、おそらくそれなりに守っていたと思います。

 

ただ、クラスの殆どが守ってない項目は守ってなかっただろうと予想します。

 

 

男にとってありがたい、殆ど守られていない校則と言えば女子のスカート丈です。

 

私がこの記事を書くきっかけも、実はスカート丈と校則なのです。

 

 

私が現役高校生だった頃、普段の態度からは真面目な印象をうけない女の子生徒会に立候補しました。

 

公約には案の定「校則に基づいた頭服検査からスカート丈を外し自由にする」という軽薄なものが掲げられ、他に候補者もいなかったため当選しました。

 

その後、校則が変わることはなく私達は卒業したのです。

 

 

不思議です。政治家ならば大バッシングです。

 

しかし、本当の不思議は為政者としての期待に対する結果に関してではありません。

 

私の言いたいことに繋げるには、少々強引ではありますが何も起こらなかったことが不思議なのです。

 

 

公約として掲げた以上、何かしらのアクションがあったとは思います。

 

教師も面倒くさがりで旧態依然で良いとしたのでしょうが、やはり問題と言えるでしょう。

 

 

我慢せずに言うと単純に面白くないのです。

 

 

そこで、ここからはどうしたら面白かったのかを述べていこうと思います。

 

 

ルールが変わる時

 

誰かを助けるのに理由はいらないかも知れません。

 

しかし、その大小に関わらず社会を巻き込むルール変わるには理由が必要です。

 

強者弱者に対し不公平なルールを押しつければ公平性を問うて変革が起こりますし、新たな発明品広く普及すれば、悪用されることのないよう取り扱いに関するルールが設けられます。

 

 

校則は学校の秩序を保ち理想を体現するためのルールです。

 

頭服に関して言えば「ポニーテール禁止」など少々行き過ぎているのでは?と思うルールもあります。

 

ルール(rule)が動詞として支配することを意味することから、これにより自由が制限されることもしばしばあるのは道理です。

 

 

学校というのは小さな社会です。よってルールの変更難しくないはずです。頭服のルールには理不尽も多く反対する「生徒」は少ないでしょう。

 

しかしながら、変わりませんでした。

 

 

原因はとても単純な話、ルールを制定したのが生徒ではないからです。

 

ルールの制定者に視点を移す生徒側の要求は極めてナンセンスです。

 

 

私達は現行のルールを守る気はありませんが、私達の望むようにルールを変えてくださいなどと言うのは虫のいい話です。

 

ルールの制定者が変更した後のルールを守る姿勢が感じられないと一蹴すれば試合終了となるでしょう。

 

 

だからこそ!

 

現行のルール全ての生徒が守っている状態を一定の期間維持できたら変えるという交換条件提示して欲しかったのです。

 

 

一定期間中の厳しい監視を経た後、全員がルールを守れば頭服のルールを変えられる、これはとてもユニークな状況といえます。

 

妄想が捗るこのケース、気になるのは一定期間どのくらいの長さだと、頭服のルール変更が達成されるのかの境い目です。

 

 

例えば3年なら絶対に達成されません、その時点で在籍している生徒にとって見返りが無いからです。

 

同様に1年も、確実に達成されないでしょう。3年生の誰かがルールを破ってしまいます。

 

 

1年より短い期間(4/1スタートとする)で漸く達成できるかどうかなのですが、この妄想ルールの原則からするとおかしいことに気づきます

 

 

 

そもそも、皆さんルール任意守っているでしょうか?

 

法律のことを思えば、校則を守るのは義務です。

 

義務を果たしても権利が主張できないことがしばしばある中で、今回の交換条件は依然として生徒有利なものといえます。

 

 

それでも私は生徒なら頭服のルールを守らないだろうと最初から決めつけていたのです

 

当たり前のことをするだけで、長期的なメリットが確実に発生すると言えば当たり前のことをするのが合理的、にもかかわらず何故ルールを守らないだろうと、どうして考えたのでしょう?

 

 

それは、頭服のルールを守らない人に対する偏見が私にあるからです。

 

 

私の経験上ですが、幸福にはスピード差があります。

 

例えば、美味しいものを食べるというのは動作幸福が直結しています。速い幸福です。少々短絡的なところがあります。

 

 

これに対し、プロ野球選手を夢見た子供プロ野球選手になるというような幸せは、遅い幸福です。いくつかの段階が必要で、長期的なものです。

 

 

私は勝手ながら頭服のルールを守らないタイプの人速い幸福を好むと考えています。

 

同時に彼らの幸福観速い幸福発生頻度を上げることなのだろうとも考えています。

 

 

彼らは速い幸福のためにしばしば合理的な選択をしないのです。また、速い幸福は自分を中心として範囲が狭いということも見逃せない事実でしょう。

 

 

ところで皆さんはマズローの欲求5段階説という言葉を聞いたことはないでしょうか?

 

マズローの説の中で、人の欲求は大きく高次のもの低次のものとにわけられるのですが、速い幸福低次の欲求に留まっていても達成できます。

 

これは重要なことです。

 

なぜなら、速い幸福に拘ることが、高次の欲求発生を鈍らせてしまうといえるからです。

 

 

話題がズレつつあるので少し戻し整理します。

 

頭服のルール変更実現というより良い未来の恩恵が得られないからとルールを守らぬ者は、短絡的な速い幸福を好み、速い幸福理性を弱らせると言えます。

 

しかしながら、より良い未来を保証されていない場合でもルールを守らぬ者には速い幸福を好む性質があるでしょう。

 

 

つまり、自らに関する短絡的な速い幸福はルールを守らない人に好まれます。

 

 

ルールを守ることはルールを変えることへの第一歩、社会と自己に関係した遅い幸福に必要な段階と言えるでしょう。

 

社会と自己に関する計画的な遅い幸福についてルールを守る者は知っているのです。

 

 

さて、このままでは中途半端にしたままの話があります。どのくらいの期間であれば短絡的な生徒を含めルールを守り校則を変えられるかということです。

 

 

せいぜい一週間(実質5日)でしょう。

 

速い幸福の誘惑はそれ程に強いです。偉そうに語る私速い幸福に負けています。

 

 

遅い幸福をじっくり見ていられる人ならば自己実現している歳ですから―。

 

 

総括

 

ルールを守る心は、遅い幸福、高次の欲求、大願の成就と関連します。

 

長期的かつ大きな目標の達成には自制心不可欠ですから、制限を受け入れ不要な指摘を受けないためのルール遵守が関連するのは当たり前とも言えます。

 

 

今年は平昌五輪がありました。

 

 

昨年怪我に泣いた羽生結弦選手が不死鳥の如き精神力で、療養中も演技のレベル向上に必要な難しい理論を勉強し二連覇に輝きました。

 

怪我をした直後羽生結弦選手が私と入れ替わっていたらひたすらゲームでもして二連覇の偉業はなかったでしょう。

 

 

そして彼は、その精神の熟達の証左として療養中の過ごし方に関して次のように述べました。(なんとソースが見当たらない、私の記憶が確かなら言っていました)

 

「今の自分に必要な幸せかを考えて、やるべき事をやりました」

 

 

まさに、速い幸福惑わされず遅い幸福成し遂げたのです。

 

 

校則を切り口に幸福観へと話をすり替えたのは少し荒っぽかったのですが、要約すると大きな事を成す人間強者の不文律を自然に守っているのです。

 

 

いかがでしたか、

 

ルールとは奥深いものです。

 

強者と弱者を分けるのも、従うルールの違いなのかもしれません。

 

 

人はみな、倫理観や道徳観から自分なりのルールを持っています。

 

 

私はこの記事を書きながら、自分なりのルールが強者のものかどうか、確認しながら歩んでいけたらと考えていました。

 

 

ここまで読んでくださる方も同様に、感じるものがあればと思います。

 

 

 

それでは明日からも、襲い来る速い幸福の誘惑に負けず

 

 

生きていきましょう。

 

それでは!