厨二病日記

取り敢えず患った不治の病が厨二病でよかった Twitterは @Pott0N_mush

ああ僕はいつごろ大人になるんだろう

導入

はあ、『少年期』。とてもいいですよね。そうはいっても現アラサーにとって、海援隊やら武田鉄矢は渋さを感じてしまうものでしたから、話し込む程の知見はありません。

 

ですが、気になることがあります。

 

それは本当に、人はいつ頃大人になるのでしょう?という疑問。

成人式を迎えたら?セックスをしたら?流石に子供ができたら大人と呼ばれざるを得なくなりますから、或いはそれが、そうなのかもしれません。

 

しかしながら、大人と呼ばれる条件が整った人間であっても実に短絡的で愚かな罪を犯し、貴重な人生の時間を刑務所で過ごす方も居ます。

何かの条件、特に通過儀礼のようなものをこなしたからということで、簡単に大人というのは、およそ間違っていると言えるのです。

 

ではいつ頃、人は大人になるのでしょう?

 

…いや、大人ってなんなのでしょう?

 

今回は少しだけ「社会」に似ていて、それなりに異なる「大人」についてガッツリ偏見を述べていこうと思います。

 

大人になるって悲しいことなの

大人になることに関して時代を少し遡ると、ピーターパンシンドロームという言葉が想起されます。

 

大人になりたくないという成人男性のことを指すそうです。この際なので、と言うよりもこの段階で立場を明確にしますと、私はそれで良いと思っています。

 

確かに中年になったらみっともないことこの上ないのですが、この記事の本質にぐいと近づくと「大人になりたくない」と思わないで大人になった気でいる人にも問題があると私は考えているのです。

 

そもそも、資本主義社会へ「大人の顔」をして参加することは「自分」と「社会」に対する深い洞察が無くても出来ます。「お金」に関心を持ち、それを手にする為のことだけ考えたり、或いは耐えたりすれば良いのです。その証拠に、私の職場には何十年と同じ現場にいて、下から「何も考えてない。」と言われながらも、前時代にあった年功序列の名残から同部署で最も高い給料を貰っている社員がいます。

 

ただ、これは体感的におかしいことで、即ち何かが道徳や倫理、哲学のレベルにおいて間違っている可能性が示唆される状態と言えます。つまり今、経済的な問題と自尊心と本質的怠惰とが絡み合って「大人」は歪なものになっているのです。

 

こうした歪な「大人」になる人は、「大人になりたくない」と思ったことが恐らくありません。「大人は厳しいな。」とか「大人はこういうものなんだ。」と見たままを受け取って、環境が作りあげた「大人」になっただけでなのです。

 

私はこれをピーターパンシンドロームと同等の問題だと思います。端的に言って無思考だからです。もはやフェイクアダルトとかそういう名前を付けて問題視すべきことと感じています。

 

と言うわけで「フェイクアダルト」について、次項で詳細に説明し共有を図りたいと思います。

 

フェイクアダルトの性格

「大人になりたくない」という思い、それは現代社会における「大人」と「子供」の差を考えた人に芽生えるものです。この時、とりわけ重要なのは、考えたということでしょう。

如何に「大人になりたくない」と思う人と言えど、同級生に見栄を張る為に、ある程度周りに合わせて生きていきます。しかし、その中で彼らは疑問を絶やすことがありません。お金が貰えていても、生き方に関して考えてしまいます。それは時に無駄で、しかし一方では役立つこともあるものです。

良いように言えば、フラストレーションから向上心に繋がることもある、そんな意思を持っているのです。

 

対してフェイクアダルトは既成の社会にあっさり適合し、先輩が教えてくれたことに従って、石橋を叩いて渡るのが得意です。一番良いように言えば、生き残るには最適な人間です。ただ裏を返せば、心配性で臆病と言えます。

 

彼等は無難なことしか言えず。無難なことしかできず。それによって生じる辛い思いに対して、解決策を講じません。それを指摘するとマウントを取るためにリスクを持ち出し、しかしながら、旧態依然の日々には文句ばかり言います。

 

また、彼等は経験によって知ったこと、能動的勉強をせずとも積み重なる程度の知識で後進に大きな態度を取ります。本質的な不勉強が改善されないまま中年を迎えているとも言えましょう。経験は説得力を支える材料であり、大切なものですが、自己や人生に関する洞察に欠ける経験は半分の価値しか持ちえません。

 

勉強の話をすると、会社のさせる勉強、お金や地位に繋がる勉強をして、不勉強ではないと主張する者も居ましょうが、その姿勢たるやまさにフェイクアダルトと言えます。「お金」や「生き残り」に関する勉強は、「大人」としての人間力を育みません。嫌なことを我慢して、お金を稼いで家族を養うのが大人、という考え方の枠から出られていない時点でフェイクアダルトなのです。

 

フェイクアダルトに対し人間力を語ると、直ぐに人間力を語る人間としてふさわしいかどうかの粗探しをして、そうでないと言える要素を見つけると話を聞かなくなります。彼等の本質には自尊心が強固に根付いていますから、柔軟に人の話を聞けないのです。先程、先輩の言うことを聞いて石橋を叩いて渡ると言った手前矛盾しますが、彼等がそれをするのは大人になって間もなくのことで、それも自尊心を守る為に有益なことに対してのみです。人の話を聞いて自分を変えてみようと考えない人は了見が狭くなります。フェイクアダルトの人生が豊かでないのは、他の誰のせいでもなく自分の姿勢に問題があるからなのです。

 

ここで、先輩の渡った石橋を叩いて渡り、それでも生じた無思考故の叱責に耐え、中年になるまで自己肯定感を育んだ彼等が長い人生を誇りに思い始めると口にし始める言葉を紹介します。それは「どこへ行っても一緒。」「世の中金。」「どうせ(成功者は)悪いことやっとる。」です。

フェイクアダルトはこれらの言葉をよく使います。何故ならば彼らはルサンチマンに心を支配されているからです。

フェイクアダルトという造語ではピンと来なかった方も、これらの言葉こそが「大人」と「まがい物」を選り分けるものと考えて頂ければ良いと思います。

 

ルサンチマンと言うのは親しみのない言葉なので、もう少し彼らがこれらの言葉を使う理由を補足説明します。

もしどこかに先述の言葉を否定する、具体的には、お金よりもやりがいを大切にして、しかし充分に稼ぎ、道徳的にも非の打ち所のない仕事をしている人が居たら、フェイクアダルトは完全なる敗北者になってしまいます。彼らはそれが受け入れられないから、若い人に向け、先程記したような言葉を使って、そんな人が居ないと思い込み自尊心を守っているのです。なんともみっともないことです。

 

そして、若いうちからとなると厳しいですが、彼らの言葉を覆す勝者は必ず居ます。恐ろしいことに、大人と呼ばれるようになった後に、時間をかけて少しずつ、大人とフェイクアダルトには差がついていくものなのです。つまり気づいた大人は黙って勝っていく。(これが敗北者に取って悪に見えるのかもしれません。)

 

ここでとりわけ重要なのは、少しずつというところです。つまり、問題はつけられている差に気づくのが難しいところにあります。

 

残念ながら、他人の言葉に対してのみ疑り深く、怒られると相手を責める文句を心の中で列挙してしまう人。こういう話の時、自分を考慮に入れない人がフェイクアダルトになる傾向にあるので、今まさに差をつけられている人に、その事を指摘をしても無駄なのが現実です。

フェイクアダルト予備軍は、きっと「日本で生き残る」ためだけならば最も論理的で退屈な言い訳を並べることでしょう。そうして、自分で作った退屈な人生の繰り返しが始まるのを、待つのみなのです。

 

ただ救いのない事ばかりではありません。次の項でフェイクアダルトにならないための一つの方法を説明します。

 

バカにつける薬、見つかる

唯一、フェイクアダルトにならないために出来ることがあります。それは「根本的に自分を見つめ直さないと解決できない問題にぶち当たる」ことです。人は藁をも掴む思いで偉人の名言に触れるほどの窮地に立たされると、論理的にかつ省エネルギーで生き抜こうとする自分の甘さを痛感します。(これは私の経験から来る偏見です。)

そしてその瞬間、その人が持つ経験から来る常識は転覆し、発想は自由を再獲得するのです。この自由こそがまがい物でない大人になるための好機だと私は思います。

 

大成していない私などが言っても説得力はありませんが、私は本物の大人達が口を揃えて「若い頃に苦労をしろ」と言う(偽物っぽいやつも言いますが)理由はこれだと確信しています。

また、本物の大人になることは成功者になるための必要条件だとも考えているので、「本物の大人になるには若い頃の苦労が必要。」というありきたりな言葉を私も持っています。(私は使えませんが)

 

大事なのは、自分の常識が覆った時に、本質を掴もうとする意思です。それはまさにバカにつける薬、頭の良さや「理屈の世界」を超えて真に重要なものと言えます。既存の社会に無理して適合する偽りの柔軟性ではない、世界と自分の在り方に関する洞察に満ちた柔軟性。再生力ともいえましょう。

「若い頃の苦労」と「強い意思」。薬と言いながら意思と言うのは、少々不親切とは思いますが、これはフェイクアダルト自体が思考体系なのでやむを得ないことです。

 

ただ結局のところ不幸なのは、この薬さえも不公平に割り当てられているという事実でしょう。

 

さて、以上が「大人」を再考した結果になります。長くなりましたが、もう少しだけ続きます。

 

終わりに

こういう上からな話を書くと、常に「お前何者のつもりだよ。」と思うのですが、恐らく…

 

「子供」なんだと思います。これは一つ、この項でお伝えしておきたいことです。

 

また、偶然にも今日は成人式が各県で行われている日です。

成人式の頃はフェイクアダルトまっしぐらだった自分の経験からすると「いつの間にか成人式に出てる」という感覚の人は緊張感を持った方がいいかもしれません。

そういう方は、今、自分の望みを確りと見つめ治さないと、自己表現の場をブログに見出す羽目になってしまいますよ。

 

冗談です。

 

さて、長くなりましたが…今年もよろしくお願いします!