厨二病日記

取り敢えず患った不治の病が厨二病でよかった Twitterは @Pott0N_mush

夢~人生を報告する時~

導入

人は死ぬ。

 

代理可能性と言う考え方によると、世の中にいる全ての人間は、多少なり特別なことが出来るとしても、特別な力に目覚め、ただ一人空を飛べるようになったりでもしない限り、取り立ててその人がやる必要のないことを死までの間やっているだけだという。

 

代えが効く存在だとするならば、なぜ必死に生きるのか?…それは死が怖いからだ。

そして人は死の不安から逃れ何かに熱中していないと、突如として生きる気力を失いかねないともいわれている。

 

このブログで私は様々な角度から労働について考えてきたが、答えは案外簡単なのかもしれない。つまり、働く事に夢中になる(させる)構造に人を埋め込むことで死の不安を忘れさせるためかもしれないということだ。

 

確かに「死にたい」などと言い出す輩は大概暇そうにしていて、かけがえのなさが目に見えて少ない。いや、私も所詮は路傍の石、かけがえのなさが少ない人の一人なのだが、それを今言うのはナンセンスだろう。

 

ただ、暇であればあるほど意識はよく動く、「集中」と呼べば聞こえはいいが、目の前のことだけを考えて過ごすと言うのは一種の思考停止でもあるからだ。そして暇になり、よくよく考えると死はとても怖い。だから社会に引っ張り出されることによって、追い立てられることによって、そんなことを真剣に考えられなくなってはじめて、その不安は消え、堂々と生き永らえているのだ。

 

死の恐怖をかき消すために思考を止めているうち、われわれは代理可能性などもうどうでもよくなって、自分が特別な存在でなくとも、かけがえのない存在でなくとも、歯車となって回ることを容認するのである。

 

ああ、なんと愚かな。しかし、何となく可愛らしい生き方をする生き物だろうか。きっと神々にとって私達は、不毛な迄に滑車を回し続けるハムスターのようなものなのだろう。

 

だが、私がオシリス(死者を裁く神)ならばそんな人生を送ってきたという報告など即刻シュレッダー行きにしてしまう。愛らしいなとは、少しだけ思ってさようならだ。死を恐れずに生きるため与えられた何かに従事して思考を止めた者よりも遥かに愛すべきなのは、死の不安とずっと対面しながら、それ以前に自分が修めておくべきことを考えて生きた者に間違いない。

 

何故ならば、そうして生きた者だけが得る奇天烈な体験こそが神々にとっても面白いものと考えるからである。

 

では、死を常に見つめながらも力強く生きていくために何が必要か、それが夢を追うことだ。

 

人は死ぬ。

 

だから死ぬ直前の思いについて、考えておく必要がある。いついかなるときも、人生は死ぬ準備なのだ。そして、追わずに済ませた夢ほど、後悔に変わるものはほかないだろう。

 

つまり夢を追うことは、死の恐怖を克服し、死ぬ前の後悔を一つ滅ぼす何物にも代え難い行為である。

 

だから、大人になったなどと言って、この歳から成功した人はいないなどと言って、夢見がちな夢を見ることを諦めてしまわないで欲しい。

 

貴方がもし、結婚していないならね。

 

アンチ・ニヒリズム

人は死ぬ。

 

そこには恥さえも残らない、ならば精神年齢が幼いと思われかねない夢を追いかけ、後ろ指を指されることにどんな意味があろうか?

 

全くなにもないと言えよう。

 

夢に向けての取り組みを、人生の最初から最後まで、0%で保留して、たらればの種にするのは簡単だが、そうして死んだら、そもそも何をしに生まれてきたのか?という話になる。

 

確かに人は死ぬ、富を得ても名声を轟かせても等しく骨になる。そうなると、やはり再就職すると出世の道は断たれる歳に起業をして、危ない橋を渡ったりする事を、愚かということが出来てしまう。だが、何もせず。不満のある日常、ワクワクする未来を目指さず、確立した灰色の日常の繰り返しの中でただ生きたならば、それはなんだろう。

 

ただ生きただけにほかならない。とでも言おうか。

 

日本という国では、余程のいきさつがない限り銃で撃たれて死ぬ確率は少ない。生きるために仕方なく、親しい人から何かを盗む必要も、あまりない。飯を食ったり安全に暮らすことを願って神に祈るよりも、より多くの利を望んだ商売繁盛や恋愛成就、受験成功等を祈った人の方が多い可能性がある。

 

つまり、日本はマズローの欲求五段階説で言えば、精神的欲求から始められる場所という事だ。これはとても恵まれていると言える。

 

しかしながら何故か、日本で生活すると「社会的欲求」の先に進もうという意思は弱っている感じる。大衆への帰属意識が高いうえに、「そういうものだ」という諦めがそこらじゅうに蔓延っている。だから、年甲斐もなく自分の意志を述べる人を「世間知らず」と謗る者が多く。そういう者は「世間知らず」がうっかり成功しようものなら「運と才能」と言って、結局自らと切り離すことが殆どだ。まあ、何も全てではないし、自分の周りだけかもしれないが、そういう「本質的にはやる気のない人」が多く感じる。

 

確かに人は死ぬ。全てを失う、自分には関係の無いことが続くだけの未来、有名でさえ、三代持てばという程度のことで、だからこそ「本質的にやる気のない生き方」は無駄な労力の少ないものだろう。

 

しかし、最も原初の部分に立ち返って欲しい。

 

ただ楽に生きたら、胸を張って語るほどの生きた意味は残るか?

 

もし残るのなら、羨ましいくらい幸せな脳ミソの持ち主だ。そうでないなら、私はその人に素直に生きて欲しいと思っている。困難が多く努力を要するうえ、結果としては手に入らない苦痛が残るだけにしてもだ。

 

簡単な話、ニヒリズムに敵対せよ、ということである。

 

ニヒリズムを論理的に正しいと解釈するのは、小学生でもできることなのだから。

 

人生を報告する時

何者かによって与えられた。人生というもの。

 

その中でニヒリズムに傾倒すれば、それはおよそ誰かの予測に則った行動規範で過ごしたものになるだろう。否、そうでなくとも、資本主義社会の中流層には多くの人間が集まって、誤差の範囲内に収まるような、無個性な人生を過ごしている。

 

皮肉な話、このような大衆のお陰で表現者は「共感性」を探すことが出来るのだろうが、路傍の石である私はそういった構造の中で、誤差の範囲内に収まる人生をやっていることに敗北感を禁じ得ない。

 

確かに、創造性を発揮して活躍する有名人を例にとってあるべき姿などと言うのは、薄っぺらい価値観である。ましてや勝者と言えば、人生の浅さを露呈するようなものだ。

 

だがどうして、多くの個体(あくまで私の体感です)は、最後、積極的に誤差範囲へと収まろうとし、全てを容認してしまうのだろうか、まるでその在り方が大正義であるかのように語ってしまうのだろう。(これに否を語る者には、「いい歳した大人が言うことじゃない」などと言う台詞が蔓延る訳を考えてみてほしい。)

 

現代、日本に住む人が持つ真の考える力は、大衆の大正義化によって消滅の危機瀕しているといえる。

 

だから、意識して欲しい。

 

人生をいつか修めた時、その報告は神にするものだということを。そして、見直して欲しい。今の自分は退屈ではない報告書を書くにたる生き方をしているかを。

 

私はただ生きているだけのことを大事にし過ぎないで欲しい。(ただ生きているだけの一部の人に対してです)

 

そう思って生きている。

 

今日この頃も、では