厨二病日記

取り敢えず患った不治の病が厨二病でよかった Twitterは @Pott0N_mush

才能とは、何か?

はじめに

これから私は、当たり前のことを書く。

 

誰もが言われたら分かる事だ。だが、人間には一つ、とても残念な仕様がある。それをまず知っておいて欲しい。

 

例えば、欲しかったプラモデルは組み立てて、完成させて、飾りたかったはずだ。しかし、いざ買ってみれば、それはいつでもできる。

今やらなくていいなら、また今度やろう。

そう思って棚の隅に買ったまま積まれていくプラモデルの話を聞かされたり、或いは貴方自身がそうしているなんてこと、割りと珍しくないだろう。

 

つまり、人は「いつでも出来るようになったこと」を物凄く軽視する。そんな癖を持っているのだ。

だからこそ、「才能」という言葉について真剣に考えることは、軽視されてしまっていると私は考える。

 

故に私は、才能について書き記すことで整理し、再度理解を深めることを目的としこの記事を制作する。

 

忘れた頃に、また思い出せるように。

 

意味論

才能という言葉は、一つだ。

 

だが、その意味は単純なものではない。単純な言葉ではないのだ。

 

1は、1で割ると1だ。いきなりそれを提示されても、それ以上思うことなどないだろう。

では、16だとどうだろう?2の4乗?4の2乗?2×8か8×2だろうか?思うことは割とある。

 

才能は後者だ。考えることが沢山ある。

まあ、正直なところ、1の様な言葉、要素になるような言葉の方が少ないのだが、それは今考えないことにしよう。

 

さて、意味論などと題したが、言いたいことはとても浅いレベルの話だ。と言うより、私は言葉の意味を分析し意味成分に分けるという手法以外、意味論的な話を理解している訳では無いので浅い話しかできないのだ。

 

ただ、敢えて意味論と言ってまで伝えたいのは、才能という言葉は複数の意味、見方を内包しているということだ。

 

既に知っている?最初に言ったではないか、そういう話をすると、ね。

 

才能を支配する者

皆さんは自分の才能を選んで生まれただろうか?

 

そうだと自信を持って答える人はまず居ないだろう。つまり、才能には「先天的な才能」が含まれると考えられる。

 

少し横道に逸れよう。

 

かの高僧ティク・ナット・ハンは言った。蓮の茎の右端を切り落としても、新たに右端が出来ると、それはつまり左端があるからで互いに支えあっていると、これは有名な相互共存の話だ。

 

これを才能の話に当て嵌める。簡単なことだ。つまり「先天的な才能」があると、同時に「後天的な才能」がある、ということである。

 

さて、才能という言葉を聞いて、いや、少なくとも私が考えようとして、先に出てきたのは「先天的な才能」だ。生まれついた瞬間から人の能力には高低の差がある。悲しいことに、平等では無い。

極端で、どう扱っても不謹慎と言われかねないので、あまり書きたくないが、障害などは不平等のわかりやすい例となる。また、そこまで言わなくとも、生まれつきで知能指数が高い者、優れた指先の感覚を持つ者、体格に恵まれる者等は学術、芸術、運動それぞれに才能を持っていると言える。私の場合、この他にも「容姿」「出身地」「家柄」等、本人が変えられない(容姿はそうでもないが)ものは才能として扱うが、それは人それぞれだろう。

 

「後天的な才能」と言うのは、そう多くはない。その理由は、ある程度本人によって変えられる可能性があるものを指すからだ。そういう性質のものは多くの場合、「才能」と気づきにくく、実際そう呼ばれていないことも多々ある。具体的に何かと言うと「周囲の人」「本人の意志」「運命」だ。

 

何かをきっかけに強い意志が生まれると、素質の差を超えていくことがある。そのきっかけは基本的に些細な事で、それが大きな成功を伴う未来に繋がると気づくのは難しい。故に気づく力は才能とほぼ同義なのだが、この「気づき」に至らしめる要因こそが先述した「後天的」な物事の組み合わせといえる。

 

例えば、芸事で身を立てる素質に恵まれた才能人であっても、多感な時期を共にする周囲の人が、出る杭を酷く打つようなムラ社会的人間であれば、その才は同調圧力によって消えてしまう。

一方で、その様な外聞を全く障害に感じない人は、素質が無く成長のスピードが遅くても、それを誰かと比べられても、最終的には「継続力」で道をものにすることがある。素質を覆す、強い「本人の意志」の賜物だ。

だが、こう言った強い意志は親の力や、それこそ親しい者の死など、使命に近いものを呼び起こす必要がある。生まれた後の影響でこそあるが自分の支配下にあるとは言い難いだろう。

 

運命というのは少々オカルティックだが、ようは外に出たかどうか、だ。否、外に出る事さえ必須ではない。

日本人は、自分の足取りをある程度自分で決められる。そして、才能を開花させるには、どれだけ「純粋な素質」に恵まれていても、生まれた後にきっかけへと向かう力が必要だ。「運命」は行動によって変えられ、きっかけとの距離を変える。後天的に大成へと近づく、チャンスを与えうるものといえるだろう。

 

そして、行動が運命を変えるならば「行動力」は唯一、生まれた後に身につけられる才能とも言える。そう、実はこれこそが我々が唯一支配できる才能の類なのだ。

 

才能の多く、つまり先天的な才能を支配する者は、およそ神と呼ぶべき存在だろう。

 

しかし、人間にも支配できる才能がある。それ「行動力」。きっかけと出会うための力である。

 

諦めない力

最後に、才能という言葉を考えた時、最後に行き着く場所を書き残しておきたい。

 

答えを見出しにした以上、それ程書くことも多くはない。才能とは、諦めない力だ。

 

ただ、残念なことに運動系は上記の答えに辿り着かないことを併せて記しておこう。つまり、文化系の才能こそ、諦めない力だということになる。

 

いや、確かに文化系、絵画、音楽、文章などにおける上達のスピード差は才能を感じさせる。また、そうした事で傷つき、才能がないという「自己防衛本能」による「勝手な決めつけ」をして文化的な取り組みをやめてしまう人はとても多い。(これに加え「お金稼ぎに追われる」といよいよ人は才能自体を諦めてしまうという大問題がある。)(ただ、あくまでも私から見た偏見の話でもある。)

 

しかしどうだろう?その差は終点たりえるだろうか?

 

世の中には登竜門と呼ばれる賞を貰って華々しく活躍する者も居るが、例外だって沢山いる。個人的に、例外をもって声を大にするのは愚かな行為だと思うのだが、話しをわかりやすくするため、例外を挙げよう。

私が例外として思いついたのは、植松伸夫さんだ。

 

今という時間にいる植松伸夫さんの音楽的な才能を疑っていい人はまず居ないか、居るとしても同等かそれ以上の実績を持つライバルくらいだろう。

だが、植松伸夫さんが子供の頃、或いはスクエアに入社する前までの話となると、まるで話が変わってしまう。その才能を見抜ける人など、殆ど居ないはずだ。

Wikipediaレベルで調べた限り、学生時代に音楽的な経歴は殆どなく。入社後もデスクトップミュージック(楽器の演奏などをせず。所謂打ち込みで音楽制作をすること)で曲を作っていて、高度な音楽理論の勉強もしていなかったらしい。

つまり、殆ど素人。同い年の音楽家志望者には大幅に遅れを取っていたと言える。

 

だが、機会に恵まれ作品を公表し続けたことで、創作に関わり続けたことで、植松伸夫さんは後に大ヒットシリーズとなるファイナルファンタジーの第一作BGMを担当し、世界にまで名を轟かせる音楽家となった。

華々しい経歴を持つ同年代の音楽家志望者を超えて、その才能を世界に認めさせることが出来たのだ。

 

植松伸夫さんが子供の頃、天才しか受け取れない何か目立った音楽の賞は、他の誰かが取った。生まれながらに芸術との関わりを持って、誰でもそれなりに能力を磨けるような英才教育は他の誰かが受けた。

 

しかし、作品を作って、認められて今、大音楽家の一人となっているのは植松伸夫さんだ。

 

才能とは、何か?

 

それは、創造し続ける心、自分の中にある。本当に、自分だけにしかないものを世の中に向けて発信し続ける力ではなかろうか?

 

そして今、それこそかつては植松伸夫さんのように、たまたま発信者の枠組みに入る機会に恵まれなければならなかったことすら、もう無い。

 

ポケットから世界へ発信できる時代が来たのだ。

 

これから先、多くの仕事が自動化され、人間の仕事はAIに取って代わられるという。まっこと歓迎すべきだ。実に退屈な仕事は機械がすれば良い。忍耐とルーチンワークの時代を生きた人間にこびりついた誤った仕事認識さえ切り替われば、未来は創造的で突き詰めがい、本質的に正しいやりがいのある仕事だらけになるだろう。

 

その時代に向けて我々が鍛え上げるべきは、イメージを表現する芸術的な能力、新しい真理に繋がる学術的な能力へと限られるに違いない。

 

いや、或いは浅学非才に生まれたらば、せめて、自分の心を開き他人に見せ続ける力。たとえ未完成な能力でも発信し、なじられようとも折れない心を持つことが、他ならぬ新時代の才能である。

 

 

才能とはやはり諦めない心。私はそう信じている。

 

終わりに

長々と記事を書いていたら、いつのまにかゴールデンウィークになっていた。

 

まったく偶然なのだが、今まさに元号が切り替わり、「新時代」が到来する。さらには、休める者にとって、普段手を出せなかった芸術活動等に精を出すチャンスでもある。

 

ついついゲームなどで時間を溶かし、「世界のお客様」になってしまいがちだが、せめて文章でも良いので、何かしらの創作活動に尽力してみては如何だろうか?

 

或いは、余計なお世話だったかもしれないが

 

では、また。