厨二病日記

取り敢えず患った不治の病が厨二病でよかった Twitterは @Pott0N_mush

【雑記】厨二病、好きな物を語る⑥

 

皆さんは普段どんな風に過ごしていますか?取り敢えず今日を安全に過ごし明日もそれなりに過ごすため、そこそこ考えて過ごしているかと思います。実際は私もそうです。

 

いや、なんだか胡散臭いなと思った方が居るかもしれません。しかし、冷静になって考えてもみてください。例えこんなブログを書いていようともそれを知られず。会社にまともな側面を見せ続けていたら「まともな社会人」なのです。つまり、つまりそういうことです。

 

さて、それはさておいても好きなことですね。

私はレミオロメンの歌が好きで特に歌詞が良いと思うのですが、「春景色」という曲の歌詞に「偶然なことが好き」というフレーズがあります。実はこれが特段好きという程でこそないのですが、今回語りたいことに最も近いと言えるので、ついでに紹介しました。

 

そう、私は偶然なことが好きなんです。どういうことか?説明したいと思います。

 

あの信号が、青になったら

皆さんの国語の教科書に「えいっ!」という話は載ったいましたか?

 

まあ私が田舎の生まれなので、あまりご存知ないかもしれません。たしか、クマの親子が信号に差し掛かって、子供が赤信号に不満げなんですけど「えいっ!」って言ったらすぐに変わって喜ぶ話です。

 

いや、きっと言いたいことは沢山あるのでしょうが、まあそんな話なのです。

あ、これは余談なのですが、その数学年後に吊り橋と山彦の話があって「いい加減にしないとぶつわよ!」という台詞の音読が男子に当たると盛り上がりましたね。懐かしいです。(他にもかげおくりなど反戦系の話は、童心ながらに真面目なやつだ!と思ってました。)

 

さて、信号の話に戻ります。クマからすれば「えいっ!」の一言で信号が変わるのは魔法みたいなものですが、人間からすればそのからくりは分かります。(確かこの父クマもっと奇跡起こせた気がしてきた。)

つまり、何も凄まじい偶然を呼び寄せる力とは言えませんよね。

 

正直、そんな都合のいい力はこの世界にないと思っています。でも、信号に余り引っかからないといったようなことは、人間の支配できない所にある力が働いて起こる事だとも思っているのです。

或いは何か一世一代の大事に出る前などに「あの信号が、10秒以内に変わったら」って、何かにきっかけを求めたりはしないでしょうか?

そして、出来事は答えを返します。何かしらの支配できない力が宿ったものをです。

 

これこそ私が言う「偶然なこと」です。

 

つまり「ただ、起きた出来事」のいくつかに対し暗示的な解釈をするということです。なんとなく分かってもらえたでしょうか?

 

重要だと感じることが、重要

私は金銭的に豊かであっても、そうでなくても(貧乏とまで行かず普通と言われる程度)、結局は目先のことばかりでお金稼ぎに追われているような人は、この世で一番貧しい人だと確信しています。

 

急いては事を仕損じると言いもしますが、急いていては見えないことも多くなると私は考えているのです。

 

例えば現世利益中心に走り回る人にとって、墓参りや、そも哲学的思案など時間の無駄になります。本当に無駄でしょうか?それは違います。生きている間にどれだけ稼いでも、死が平等に訪れるからです。

人間は死が近づき、衰えると途端に生きている間よりも死後に関心が湧いてきます。お金が有っても身動きが取れない、体力がないともなると「生き飽きる」のです。だから、若いうちからの哲学的思案は重要になります。その時から死までに、哲学的な考察が間に合うほど優れた能力があるなら良いのですが、そういう人は少ないと思うのです。

 

さても、偶然なことについて話を戻しましょう。

 

生きていると、何かを直感する出来事に出会います。虫の知らせ、と言いましょうか。

先程述べましたが、お出掛けというのは特にわかりやすいですね。信号に沢山引っかかるかそうでないかは、その外出の結果を暗示しているかもしれません。

 

これだけならば「占い事」の範疇ですが、何気ない会話の中で頻繁に指摘されること、特に自分に都合の悪い話などを「啓示として捉えること」は明らかに有意義な効果を生みます。

 

もしかしたら本当に自分には悪い性質があるかもしれない、そう思うことで初めて他人の言葉は「聞こえてくる」ものですから。間違いありません。

 

もっと細かくなると、所作、対応です。相手が嫌な顔をした時、自分が何をしているか、細かいことから天啓を得るようになれればより良く、生きられると私は考えています。(残念ながら全く徹底できていませんが…。)

 

また、私はこれまでのことを理解しつつも、敢えてズケズケと行く時があります。その理由は、それ程相手と社会的地位が違わなければ、くっつく離れるは「揺らぎ」だと考えているからです。だから私には友達が少ないのですが、結局、頼りになる人や心底楽しい時間をシェアできる人は残っています。

 

正直、残らなかった人などは別に立場が上でもない訳ですから、特に損はないですしね。

 

ここは少し、話がそれ気味なので纏めると、偶然を認識してるから「誰にでもいい顔しない」という所作を選べる、という所がポイントです。

人間、「誰にでもいい顔をしている」と疲れます。付き合う人はふるいにかけるべきなのです。全員を平等に扱おうする平和主義的で非選民的な考え方は理想かもしれませんが、はっきり言って人生の本質を掴もうと考えたことがなさそうな思想としかいえません。所詮人生80年程度です。地球の上をどれ程歩けど宇宙にとって擦り傷にもなりません。そんな短くて、個人にとって貴重な時間を「偶然」の認識が甘いばかりに無駄にすることなどあってはならないと思うのです。

 

社会的地位の近い人に対しては「去るもの追わず」がベストだというのが私の考え、立場と言えましょう。

 

色々と語りましたが全ては偶然なのです。そして、それは人だけでは成立しないものでもあります。つまり、全てが天啓なのです。それらは何かを暗示していたり、警告していたりしながら私達を作りあげています。その全てを無視しながら、目先の欲に走り、単純な論理で忙しく生きたならば、忽ち人生は貧しいものになる。

 

そう、重要だと思うことが重要で、何気ないことにメッセージせいを感じるのが、私は好きなのです。

 

終わりに

とはいえね。徹底するのは難しいです。

 

こうして初手で言い訳するくらい、細やかなことから自分を躾直したり、厳しい意見と面と向かってやり合うのは大変です。

 

なにより皆が皆そうではないし、恐縮ではあるけれども、言った相手が人生の先輩方とは言え欠点を晒しまくっていれば、聞くに聞けないということにもなります。

 

ここにいたり私がいつも思うのは「この人は本当に立派だ。」と思う人と出会うことの大切さです。そうした人が自分を見て忠告して下されば、それは無二の天啓になるといえましょう。

 

まだまだ、私も手前側アラサー。これから人の何かを指摘する際には「聞いて貰える生活」を提示できるよう心がけていきたいです。

 

言うだけになるかもしれませんが(言い訳)

 

それでは!