厨二病日記

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墓参りに行く理由、多分2度目

はじめに

墓参りに行った。いつもの事だ。

数年前から墓参りには一人でも行くし親とも行くようにしている。基本的に土日が埋まったり、埋められそうになる以前は必ず月一で行っていた。

 

コロナ禍になって、偶然が噛み合って、オンラインでゲームする機会が増えてから、実は何度か"自粛"してしまったけれども、お墓参りは原則自分のやるべきこととして、自分の意思で決めて取り組んでいる事だ。

 

これの理由について、手前味噌ではあるが、オカルティックではあるが宗教的ではない、ユニークで意外とロジカルな理由があるのでそれを書こうと思う。

 

それに、自分も"自粛"してしまうくらいには、やろうと決めた時の気持ちを忘れかけているので。

 

全力で物事に取り組むと、最後は運否天賦になる

全ての人間が感情を廃し論理的整合性のみによって動いても、天災や未知の死の病によって死んでしまう人と死なない人に分かれるだろう。

その采配は人間がしたのか?と問いかけた時、「正しい答え」を返せる人もきっといないはずだ。

 

仮に全国模試で毎回満点を叩き出す人間が居たとして、その人がセンター試験で満点を取ることは確実だろうか?これは正しい答えがあって「確実ではない」になる。

 

とても簡単な話、実力には運が含まれていて、全ては「噛み合わせ」に依存すると言うのが私の考え方だ。

 

そこで仮に実力が運と努力(能力)を50:50のものと定めてみる。この場合、常日頃の努力が100%であったとして運勢面が0だとその人は本来持つ50%しか実力を発揮出来ないという事になる。これは当人が社会に出て活躍するにあたり由々しき問題だろう。

また同時に、このことは実力に大きく関わる"運を掴むための行為"がとても重要であることを示唆している。

 

"運を掴む行為"と言うのは、分かり易いものとしてパワースポット巡りなどが挙げられるが、個人的にあれはあまり好きではない。頼られるパワースポット側の視点に立つと、随分不埒なやつが来たなと思うだろうからだ。何より巡りなどと言って遠くの神様に会いに行くというのは地元の因果の強い神様に対しても非礼でもある。何よりこの因果と言うのは後の話においても重要で、少し話が逸れたようになったが、この一点についてはしっかりと抑えておいて欲しい。

 

ここまでをまとめると、運がとても重要という事実の再確認。運を掴む行為をすべきという考えの伝達。そして、その行為は自らの因果に基づいているべきという主張を行っている。

時間が無い人はこの辺りだけ読んで次に進んで欲しい。

 

運命論を確立する

運を掴むにあたりパワースポット巡りを例に挙げ、結局否定したがそれにはもう一つ意味がある。

一先ず、パワースポットとは誰が決めて、どう合理的に貴方へ恩恵を返すのか?という話をしたいのだ。

 

マスメディアが定めたとあれば、まず論外だろう。これは情報の正誤や反メディア思想的な話ではなく、単純な話として「あそこに行けば運が良くなる」という虫のいい話を、メディア媒体から聞いただけで信じていると言えそうだからだ。

勿論この順序でパワースポット巡りをしている人であっても一概に全員を否定するつもりは無い。脳を通していれば問題は無いと考えている。己が確立した運命論に基づき他人に説明できるほどの理由があれば、問題は無い。

 

つまり、行いどうこうよりも、運命論を確立する事が重要だと言える。

 

そこで私が信頼を置いているもの。それが四柱推命だ。

 

元々私の中学生時代に細木数子さんの六星占術が流行っており、そこで初めて占術の存在を知ったのだが、当時は何かに本気で取り組むことも無かったため、運の揺らぎで振り回されること自体少なかった。そのため、占術についてもこんなものだろうと運命周期を把握する程度に留め置くだけだった。

 

その後時が経ち、私は全力で取り組みたいと思えることに出会った。そして努力の面で色々なことを考慮しながら物事に取り組んでいくのだが、成功するには如何せん他者の感覚によって選ばれる必要もある分野だったため、努力では足らない何かが必要だと感じるようになったのだ。

 

そこで改めて勉強しようと思ったのが占術だった。

 

無論、誰かを占うスキルの面ではなく、どうすれば運命の下ブレを回避することが出来るか、その根拠とは何か?という所に関心を持っての事なので、残念ではあるが人を占うスキルは無い。

 

話を戻す。というよりも、察しのよい方ならもうお分かりかと思うが、その勉強の結果が墓参りだった。この記事を書く理由は結局、それの詳細を伝えることだろう。

そのため、ここで一度区切りを入れようと思う。

 

短くまとめると、確固たる自分の運命論に基づいて運を掴む行為を確りすべきと思う。という意見と私の運命論は四柱推命に根ざしており墓参りをする理由はそこにある。という事を説明したので反芻頂けると有難い。

 

自らと因果のある神

お墓参りの話をする前に、簡単な「運」の話をしようと思う。一先ず重要なのは「運」が何者によって齎されるかという話だろう。

 

私の考えでは「運」を齎すのは神だ。

 

例えばの話、私が野球のバッターでサヨナラのチャンスにフライを打ち上げたとする。本来であれば平凡なフライのところ、上空に強烈な風が吹いてホームランになったらそれは運が良かったと言えるはずだ。

 

では、誰が風の行先を決めたのだろう?この場合、それは運を決めたものと言って差し支えない存在だ。

この問いの答えは何か考えた時、我々は神か、無かの選択を迫られるのではなかろうか。そして、その先は人次第だが、私は神がそれを決めたと考える事にした。

 

つまり、運には神の影響が及んでいるとしたのだ。

 

結果、運を掴む行為とは神に対して礼を示す行為だと私は結論づけた。

 

前述の結論を持って漸く墓参りの話をしよう。

 

私が墓参りをする理由は、それを自身にまつわる地の神へ挨拶をしに行くことと考えているからだ。自らと深い縁を持つ地の神、それはご先祖さまのことである。何よりここで一つ面白いのは御先祖様が神仏に昇華しているという考えはそれ程納得のいかないものではなく、オカルティックでありながらにしてその恩恵を受けようと言うのは合理的な判断であるということだろう。

 

四柱推命において運が悪い時のことを「空亡」と呼ぶのだが、これは自らの運命を担う「天の神」が不在になる事を意味している。空に神なき時だ。

これが起こる要因は簡単で、「天干」が十周期であるのに対し「地支」が十二周期なためである。

故に十二年のうち二年ほど天の神が不在となり、運気が弱まる時期となるのだ。

しかしながら、これは裏を返せば地の神はずっと自分を守ってくれているということである。そして先述の通り自身にまつわる地の神とはご先祖さまに他ならない。つまり、私の墓参りは究極、この「空亡」の影響を最小限に抑えることを目的としているのである。

 

そして今は、その究極から発展して「裏目消し」になっているとも言えよう。

 

それはどういうことかと言うと、こうして決めた以上私には、目の前で悪い事が起きた時に墓参りをしなかったせいにしたり、良い事が起きたら墓参りをしたおかげとしてしまうというような精神的な歪みが生じていてるということで、もう後戻りできないという事だ。

事実、コロナ禍を言い訳に最近何度かサボってしまったのだが妙に精神が落ち着かなかった。

 

ここまで行くと、多少如何なものかという所ではあるが、とはいえ原則ご先祖さまを敬うと言うのは悪い事ではない。また一般的に良いとされる行為が、自らの運命に対しても良いとされる行為とも言えるようなものなので、重んじる気持ちは理解して欲しいところだ。

 

さて、少し説明が込み入ってしまったが、一度ここまで全てを要約しよう。

今回の話は、運って大事だよね?から始まりそれは神様も関係するよね?を経由して、天の神様と地の神様がいて天の神様は不在になる時があるよね?という話をして、じゃあ何時もいてくれる地の神を大切にしないとね?となって、その正体がご先祖さまであるというものだ。

そして私がお墓参りをする理由は、その御先祖さまに挨拶を欠かさない事で、必要とされる運を掴む行為を成し、同時に(あくまで自分の中で)やるべき事もやらずに不満を言うということを避けるためと説明したつもりだ。

 

もっと分かりやすく、もう一度一言でまとめよう、墓参りはし得で損がない。

 

それだけの事だ。

もう随分と長くなったので、まとめに入ろうと思う。

 

まとめ

今回の記事を通して私は、論理的整合性の高い、運命論を持つことは、一見オカルティックでありながらにして、合理的な行為であるとまず言いたい。

そして、運命論にしたがって悪運を引き寄せないことが重要だと考えた時、天の神亡き自分を支えるものは何か?それは地続きに連なってきた先祖の楔、ひいては先祖という名の神様だという事も伝えたいことの一つだ。

 

故に私はお墓参りをする。自らの運命に関する事柄を蔑ろにしておきながら、何を嘆くかと言う話になる前に。

 

そうして徹底的に悪因を潰して進み、何も無い自分だと悟る時が来るなら。

 

多分それはそれで仕方ない事なのだろう。