厨二病日記

取り敢えず患った不治の病が厨二病でよかった Twitterは @Pott0N_mush

【日々の徒然】彼岸の悲願

3/21のできごと

この日はお彼岸だった。

 

昼下がりにお墓参りへ行くと、既にたくさんの花が手向けられていて、自らの先祖を尊ぶことが出来る心豊かな人の存在を感じられた。

 

占術を好む私の立場として、先祖供養は自分にとっても、家族にとっても益となる重要な行為だ。なんといっても、今という点へ到るに御先祖様を欠くことはできない。そう考えている。

 

つまり、論理的なレベルで考えて、御先祖様というものは、最も確実に存在する神に近い存在といえる。故に、これを大切にしない手はない。もっとも、仮に論理的な後ろ盾がない行動であったとて、お墓参りを欠くつもりなど全くないのだが…。

 

それでも私は今、論理的整合の話をした。

これには少しばかり意味がある。それは都度私が感じることをこれから記すためといえよう。

 

全ては偶然である

お墓参りをしていると、偶に「時間が勿体無い」と言う理由でそれをしない人と会う。

 

成程、確かに墓参りはかけた時間に対して得られるものが殆どない。資本主義に対して合理的な考え方、あるいは現世利益に拘った考えに従うと、全く無駄と言えよう。

 

しかし、世界は現世利益などという些末なものに拘った価値観で見るに相応しくない広がりを見せている。未だ人類の知がおよばぬ事ばかりで、人生の良し悪しを左右する運命もまた、人智の支配から外れたものと言える現状だ。

 

ならば、知の支配が届かぬ不明瞭な未来にある試練を乗り越える後ろ盾に、何が確信をもって使えようか?それこそが過去よりの力、自らの根となった御先祖様達の加護と言える。

 

しかも、世界で起きることは、つまるところ全て偶然だ。過去になったそれらには、確かに合理的な理由づけができるが、未来には予め支配できないことが沢山ある。人が人を選ぶことで決まる事情も多くあって、人は言うほど合理的ではない。

 

では善き結果には、何が必要だろうか?答えは簡単な話だ。善因善果。善き行いが必要なのだ。そう、御先祖様の加護だけではない。揺るぎなく、善き結果を出すため、ベストを尽くしたと言うのに墓参りの様な儀式が必要だといえるだろう。

 

ついでにひとつ付け加えると、様々な不徳を重ねて、悪い結果を前にすると改善に迷いが生じることが多い。そして、それは人生とって、ゲーム等に興じて溶かす時間よりも無駄な時間となる。この予防にも先祖供養は役立つといえる。

 

結論もなにもだが。墓参りはいい。是非とも始めてみてほしいものだ。

 

終わりに

年始、私は電車に乗って御伊勢参りに行く。

 

その時もふと思うのだ。自分はこんなにも簡単に伊勢神宮をお参りできるが、自分の御先祖様は志半ばにして倒れたかもしれないと。なんならば、それが鳥居の少し前だったら、どうだったろう?と。

 

…日々の中で自分が恵まれていると感じられると少し辛いこと位は乗り越える力が湧いてくるときがある。伊勢参りの折にも、御先祖様を考慮に入れるとありがたみがまた違ってくる。私に繋がる命が、かつて叶えられなかった悲願を成し遂げているかもしれないのだ。

 

兎角、彼岸の墓参りを終えた。

 

明日からまた、それなりに生きていこうと思う。御先祖様達もそれなりに、懸命に、生きたのだから。

 

それでは