宇宙を駆ける
導入
Zガンダムの最終話、その主人公カミーユ・ビダンは宇宙を駆けた。
私が子供の頃というのは、ポケットモンスターがブレイク、ドラゴンクエストは天空シリーズが隆盛し、ファイナルファンタジーも(これは少し長い期間を括るが)V〜Xが発売され名シリーズと化していた。
私にとってゲームの世界は魅力的で、お金が無かったこともあいまってマップの隅から隅まで遊んだことを覚えている。そこには、色めきたった世界があった。
主人公というのは、その世界を縦横無尽に駆け抜け世界を救うヒーローのことを指す。
彼らの放つ多彩な光は、子供の頃の私に全て届いていた。
やがて時は経ち、光は一筋ほどとなった。
そして現在、それが本当に私を救う一条の光なのか、頬を伝う涙一筋に変ってしまうのかを決める分水嶺に差し掛かっている。
まだ少し、ヒーローの話をしよう。
この世界にはヒーローがいる。手短に伝えるならば「羽生結弦」選手はヒーローで間違いない。よく同世代の「大谷翔平」選手と比較されるが、私の定義するヒーロー度で述べるならば「羽生結弦」選手に軍配があがる。(勿論両選手ともヒーローである。)
後々に話をわかりやすくするため、もう一人、世代はぐんと上がるが「大谷翔平」を凌ぎ、「羽生結弦」選手に匹敵するヒーローの名を挙げよう。
それは「八十岡翔太」という、マジック・ザ・ギャザリングというカードゲームのプロ選手だ。
「大谷翔平」選手のファン(私もそうであるが)に反感を買う前に、冒頭へ戻って欲しい。
カミーユ・ビダンは確かにヒーローだが、作中で有名人だろうか?また、登場するいずれかの国に住む人を熱狂させただろうか?
私の知る限りそのようなことはない。
私はここまで頻繁にヒーローという言葉を使ってきたが、これは英雄ではなく主人公を意味するものだ。
実はここが話の要だ。
今回の記事で私は独自の「ヒーロー観」から生じた「世界」に対するアプローチを紹介したいと思う。よって、ここで導入を閉じる。
次の項もよろしくお付き合い願いたい。
五界説~5 world~
私が2X年程生きて気づいたのは、5つ世界があるということだ。この主張は一見して精神異常者のようだが、私は精神病院を紹介されたことがない。
何故か?それは五界を利用しているからといえる。
これから五界の紹介をしていくが、まず注意しておくこととして、五界は私独自の考え方であり一般論ではない。
これから独自の単語をあたかも一般的にあるように話すが、勝手ながら伝えたいことを伝えるためにそうしていること、ご理解頂きたい。
五界とは「真実世界」「認識世界」「自己世界」「他者世界」「精神世界」の5つの世界を言う。
「真実世界」は簡潔に物質の全てだ。
「認識世界」とは、主体が観測をし存在を認識した「真実世界」の一部を指す。
「自己世界」は自己が持つ「認識世界」と「精神世界」を合わせた領域のことだ。
「他者世界」は「自己世界」の自己を他者に置き換えたもの。
「精神世界」は思考体系を大陸とする精神的地球があると考えてもらうのがわかりやすい。
この五界を把握しておけば、このようなブログ記事を書く程度の精神病でも精神異常者でないように振る舞えるのだ。
これぞ厨二病患者の見出した奥義が一つ
五界説である。
その方法を説明する前に、話は一度「ヒーロー観」を経由する。五界はそこから生じたからだ。
私の中でヒーローは自由だ。
私はゲーム世代ゆえに、ヒーローとは属さず。そして、世界の隅々まで旅をする。
街の入口で延々と旅の人に街を紹介する必要も、旅の人が昨晩お楽しみだったかどうか壁に耳を当てて伺う虚しい趣味を支えにして宿屋経営をすることもない。
組織に従属せず。共同体に与えられた仕事から拘束されることもなく。
そして広大な「認識世界」を持つ、それが私の思う「ヒーロー」なのだ。
そういう意味でいうと「プロ野球選手」はヒーロー度が低くなってしまう。属すからだ。
無論、「フィギュアスケーター」や「カードゲームのプロ」もチームに所属したり契約に縛られはするだろうが、個人で動くことも不可能ではなく訪れる国も様々になる。
勿論仕事で全国各地を飛び回り時には海外へも行く「プロ野球選手」も、間違いなくヒーローの域にはいると言える。ただ自由にという点で度合いが劣るのだ。
ただ、決まった場所に出勤し、見知った範囲で仕事をする一般的な会社員に比べると明らかにヒーローだろう。
つまり、人生の中でヒーローに近づくには「認識世界」を広げることが重要と言える。これは五界説においてもキーになっている考え方だ。
ヒーロー観から五界を生み出したうえで最も重要なことの一つは
世界が「真実世界」と「認識世界」に分かれたことだ。
日本人の(あるいは世に人の)多くは、歳を重ねる毎に自分の知識へプライドを持ち始める。
多くの日本人、すなわち属す者は本質的に「認識世界」が狭いのだが、そのため想定外も起こりづらい。結果、仮想的全能感に溺れがちだ。(偏見です。)
安定していて楽な構築済の「認識世界」を這い回るうちにそれが「真実世界」の一部であることを忘れ世界の全てと錯覚しまうのだ。
まさしく「傲慢」は罪の体現である。
傲慢な人は必ず諍いを生む、すなわち「認識世界」と「真実世界」を分けて捉えることは無駄な諍いを避けるために重要といえよう。
また、「認識世界」は主体の観測した全てなので、それが「真実世界」の一部であるという認識を持つことは謙虚さや向上心にもつながる。
我々は誰一人とて宇宙の果てを知らない、無知なのだ。端的に言うと、それを自覚するということである。
「真実世界」も「認識世界」も世界の全てに関してのこと故に、二界で充分ではないか?と感じた人もいるかもしれない。
しかし、それだけだと近い「認識世界」を持つ人が違う考え方を持つことに対して説明がつかなくなる。
具体的に言うと同じ地区、同じ小学校で教育を受けていても関心が異なったりすることだ。
家庭環境、性別、才能の違いが影響してるのも確かだが、私にはもう一つの世界があるとしか思えなかった。
また、どれだけ独自の思考体系を築き上げたつもりでも、実は殆どが先人によって一度考えられたものだ。
五界は私なりの考え方であるが、或いは先人に近いことを考えた人はいるかもしれない。
こんなふうに考え方が遠くにいる人と似たり、近くにいる人と全く違ったりするのは不思議で興味深かった。そのことについて思案しているうちにさらに別の世界があると確信したのだ。
辿り着いたこの奇妙を説明する世界が、「精神世界」である。
私の中で精神世界というのは地図が作れるような具体的なものだ、青白く光る何かの集合みたいな曖昧なイメージとは異なる。
そこには道や山、島や集落がきちんとある。
私は気が合う人に会うと、精神世界地図上の同じ島に居る人だと感じる。きっと同じように世界を見ているからこそ、話は弾むし、こういうただただ気難しいだけで知識をつける面では何の役にも立たない話を互いにひたすらすることができるのだなと考えている。
要するに、「精神世界」というのは思考体系の島や集落があり、哲学者などは集落の境界線を探す人のようなイメージだ。
そして、「精神世界」においても人は大地に足をつけねば生きられない。
かの有名な八つ墓村事件の資料には、その犯人が孤立無援の状況であったと記されているらしいが、これぞその証左といえよう。
「精神世界」で宙に浮くと、人は異常な行動を起こす。先述の件は強い孤独の中で拠り所を失った心が起こした事件だったのだ。
しかし、たとえへんぴな集落に居たとしても地に足をついていれば正常な挙動をすると私は考えている。私が社会で普通に働いているのだから、おそらくそうだろう。
すなわち、「精神世界」への気づきは、思考体系の独立を目指す人が陥りやすい精神疾患を防ぎ、生活に馴染むためにも有用といえる。
ここに来て漸く「真実世界」「認識世界」「精神世界」の3つの世界が説明できた。
そして、多少は変わった考えを持つ私が世の中で生きていけている一つ目の理由も「精神世界」で地に足をつけているからと理解頂けたかと思う。
残りの世界は「自己世界」と「他者世界」だ。
突然だが、この世界には自分が二人いる。これは耳慣れない事実かもしれないが、きちんと説明すれば、およそ理解して頂けると考えている。
例えば、「自分のことをイケメンと信じているAさん」がいるとしよう。しかしながら、Aさん周辺で聞き込みを行うとAさんをイケメンと思う人が0人だったとする。
もし貴方がAさんなら、この世界には「イケメンな自分」と「そうでない自分」の二人が居るということになる。
そのうえで「イケメンな自分」がよりハッキリと見えているという状態だ。
人は自分のことを誰よりも知っていると思っている。他者と違い、心がわかる唯一の存在だから仕方がない。しかし、本当の自分は意外なところにいるもので、沢山の他者が共有している自分要素の集合体こそ社会に実在する自分である。
よって自己にとって、確かに自分は二人居るのだ。
恐ろしいことに、歳をとると強くなるのは思い込みの自分だ。社会に実在する自分の具合が悪いと尚更その思いは強くなる。
そうなるとまず誰かに実在する弱点を指摘されても、それを迎え撃つ準備ができなくなってしまう。
また、頑なに正直を貫くあまり利用されてつらいところに行ってしまう人や相手に自分をよく見せるため背伸びすることを見栄っ張りと言いながら、魅力的でないまま在ろうとする人も居る。
彼等は思い込みの自分を増長させすぎたがため、自分らしさを貫くという大義のもと、社会に実在する自分を向上させていない事実を見落としてしまっているのだ。
「自己世界」と「他者世界」を認識することで社会に実在する自分を見つめ、自分の知りうる長短を出し入れし、立ち位置を支配することができる。
貧しくとも「自由自在」に近づくことができるのだ。それは金や権力で成立させるものより遥かに上質である。
こうして二つの世界が加わり
五界はできあがった。
一度これを認識すると世界は想像を超えて遥かに広く、また奥行きのあるものだと思い知らされる。同時に、短絡的な欲求とその解決を連続させるだけに人生を費すのはもったいないと感じさせられた。
最も厳しいと感じたことは、自分のとるべき所作がある程度見える分、甘えによってそれを取らなかった瞬間が見えることだろう。
仕事のやりがいに対し様々な考え方があるが、五界説の立場から言うと、やりがいは最優先である。
恥ずかしながら私はこれを間違えたがため、偉そうに意識の高いことを述べていても、自覚できるレベルの甘えに足を取られている。
手前味噌ではあるが五界説の厳しいところは、理想が高すぎることだろう。
しかしながら、理想とは計画と似たようなものだ。アイゼンハワーの言葉を借りるなら、役には立たないが立てるべきものなのだ。
その大切さと五界説とを読者と未来の自分に伝えるため今回はこの記事を書いた。
長くなってきたので、そろそろ話をまとめていこうと思う。
総括
正直なところ、美味しいとこだけまとめようと自分では思わない程、全部読んで欲しいと思っている。
しかしながら、簡潔にまとめ直さないと全文読み直すのは未来の私が恥ずかしく思うかもしれないので、自分用にまとめておく。
・実際に見た世界の量は人によって異なり、能力の高い者は必然的にその量が多くなる。
・実際に存在する世界の全てを「真実世界」とするならば、主体にとっての世界はそれと異なるため「認識世界」として分けざるを得ない。
・世界を分けて考えた時、異なる地域で生じる思考体系の共通性などから「精神世界」の存在が合理的に浮かび上がってくる。
・各個人それぞれが「認識世界」を持つことから、自己にとって自分の思う自分と他者に共有される自分がいる。自己の認識と精神面が混ざりあった自分の思う自分がいる世界を「自己世界」、他者に伝わった情報とその人の偏見が混ざりあってできる自分がいる世界を「他者世界」と名づけ管理した。
・五つの世界をまとめて五界説と呼ぶことにした。これをうまく活用する環境に身を置ければ「自由自在」の達成につながる。
悲しいことに今の私は意識高い系にすぎない。
不幸中の幸いは意識高い系であることの表現がこのブログを含めた上で日常を見ればの話に留まっており、社会に向けてなされていないことだ。
さらに助かるのは、日常生活を適当に収めながらも、まだ理想を追えていることだろう。
いつの日かやりがいのある仕事に高い意識を持って取り組める機会を得られれば、意識高い系を脱却することができる。
そんな日が来ることを祈る独白をもってこの記事は終いにしよう。
長くなりましたがお付き合い頂けたならありがとうございました。
それでは、また次回!