厨二病日記

取り敢えず患った不治の病が厨二病でよかった Twitterは @Pott0N_mush

防人の詩って凄い

まずインターネットタトゥーとか

自分がインターネットというものに接するようになって随分経つ。

 

悲しい事にその裏側、無論ダークウェブなどといった危険なところという意味合いでは無く、HTMLとかJavaとかCSS3みたいな話についても見識が広がるようなインターネットとの接し方をした訳では無いただのお客様な訳だが、兎角インターネット歴はまあまあ長い方になったという話だ。

 

自分が「インターネットをやる」という、あくまで結果的に、無駄な時間(とはいえ楽しんできた)の過ごし方をするようになったのは2009年頃、VIP(2ちゃんねる)とニコニコがほんのり対立をしていたりした頃で、2ちゃん自体、ニュー速とVIPそしてその他といった頃だった。

 

その頃のインターネットの気質、というよりインターネットを利用する人の傾向と言うのは、陰キャの一言に尽きよう。

2ちゃんねるには一応名前を入力する欄がある。だがそこでは名前を持つだけでコテハンと呼ばれ、浮いてしまい。個性を持つ事はリスク、否、正確には直接現実に害をなさないため、精神衛生上良くない危険性がある行為とされていた。

そこは何物でもない存在として、誰かと有意義かどうか分からない話をするための場所だったのだ。

勿論、たまに本当かつ役に立つ知識が流れる事もあるがことVIPにおいてはエンタメ要素が強く、本当に意味は無いがちょっと面白い位の情報しか得られなかった。

閑話休題、そこで最も有り得ない行為とされていたのが「インターネットコンテンツの実名利用」「顔出し」等といった自らの特定に繋がる情報の公開だ。

私自身不特定多数が見るインターネットに流れた(あるいは流した)顔情報や名前がおもちゃにされているのを何度か見た。具体的には「濡れオタク」とか。

 

今もGoogleで検索すると引っかかる位にはインターネットに「残っている」のだが、これを最近は一般に心象を悪くされがちでかつ消えないものの代表「タトゥー」と合わせてインターネットタトゥーと呼ぶようになっていること。まずはその認識をシェアしたい。防人の詩の話は、まだ先のことだ。

 

ご先祖さまってどんな人?

私はこのブログで、何度も墓参りに行く理由を話してきた。流石にここでは一言で言うと、ご先祖さまに感謝するためなのだが、実はご先祖さまが凄い人なのか平凡な人なのか、どんな顔をしていたのか、どこで生きたのか、なんで死んだのか等は一切知らない。理由は簡単。

 

「残っていない」からだ。

 

私が思うに、昔は残す術がそもそも多くなかった。或いは残そうとしても、それを保存したり管理する人が居なければ徐々に朽ちていくだけだったのだろう。

私の先祖の事は三代も遡ればあっという間に分からなくなって、世間の人からすれば「無」に近い存在だと言える。

 

私はこれを直感的に悲しい事だと思う。

 

だって、もしかしたら弱々しい母体から命懸けで産み落とされた命を、たった一人、男手一つで育てて繋いだ事がかつてあったとしても、その人生は「無」なのだから。どんな悲劇も、幸福に満ちた人生も「残らない」ことによって「無」となり何に思いを馳せることも出来ない。

 

世の常とは言え、多少憤るところではある。

 

防人の詩

もう既に、何が凄いのかは分かっていると思う。

 

そうそれは、「残った」という事だ。

 

「残った」事で、今私たちはかつて生きていた防人の悲哀に思いを馳せることが出来る。えにしはどうか?とまで問われればそれはわからないし、必要なことか?と言われると首を縦に振ることもできない。だが、できるできないで言うと、できるのだ。

 

それは凄いことだ。世界には「無」に帰る人が沢山いる。何も残そうとしなければ、あっという間に消える。

 

ただ唯一、この現代には簡単に消えない方法がある。きっと、それこそが現代を生きられる幸運に返すべきと事だと私は思っている。

 

タトゥーか爪痕か

そういう意味ではインターネットタトゥーも「残った」。時間の経過と共に誰もがそれに関心を割く時間は減ったが、今もこうして覚えている人は偶に「思い返している」。なんなら、この人はその後どうなったのだろう?とも思うのだ。

 

無論、見られずに消えて終わるログもあるとか、そんな行動に繋がらなくなる退屈な水かけはあるだろう。だがそれはつまらないので無視すると。

 

これはインターネットタトゥーを作ってしまった人が、その辺を生きる有象無象よりも確かに存在することを表しているのだ。勿論、タトゥーと言われるだけあって一般には心象のよくないカタチであり望ましい事でもない。ただ何も表現せずに生きた人間に比べると、ハッキリとした存在の証拠がそこにはあるのだといえる。

 

そうインターネットは「存在」をより長く残す可能性を秘めている。そして今、私達はそこへ自由に書き込むことが、表現する事ができるのだ。

 

そろそろ私が何を言いたくてこの記事を書いたのか、伝えようと思う。

 

ブログ、書き得です。

正直、それだけです。確かに、アカウントは自分では無い名前かも知れません。でもそれは防人の詩と何も変わりませんよね。

 

そして防人の詩は凄いんです。

 

じゃあブログだって凄いじゃないですか。

 

まあ、ブログという形式が廃れて、運営が無くなり、サーバーが消えて、或いはそもそもインターネット自体が人類の愚かさによって消えるような事があれば何年残るかなんて分からないけれども。

 

何百年か後に、自分が考えを表現したものが、深読みされてたりしたら面白いですよね。

 

私はそう思って書いています。

 

そして、沢山の人に書いて欲しいです。

 

自分という人間の考えをまとめた記事だけで更新が終わってしまっても、それはいいと思います。

クソ長い自己紹介と誰かの主義主張を私は知りたいです。

 

だって、そうするだけで自己満足かもしれないけど「無」にならない可能性が生まれるのだから。

 

うん。