厨二病日記

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飯塚幸三氏の失言と自分自身について

はじめに

少し前に飯塚幸三氏が炎上発言をした。

 

自身が運転する車の操縦を誤った事によって起こした事故で、一人の男が愛する人尊い幼子の命を奪ったにも関わらず、安全な車の開発を望むなどと、車にも責任があるという旨の発言をすれば、炎上するのも当然のことだろうと私も思った。

 

きっと、この事を今思い出すと、未だに強い怒りが湧く人もいれば、すでに時の人として懐かしむ人も、またいる事だろう。

 

これから先の文章をを読むにあたり、念の為、強く心に刻んで欲しいのは、例えそのように聞こえようとも「飯塚幸三氏のことを擁護する意志(特に炎上発言に至るまで)は全く無い」ということ一つ。

 

準備ができたらば続きを読んで欲しい。

 

逆巻く火に薪をくべる人よ

幾人かの聡い人は、とうに察していることだろうが、世に高齢者ドライバーの起こす事故などごまんとある。疑ってかかる人ならば、別段急増したわけでもないというデータを探した人もいることだろう。

 

とかく今回マスメディアはビデオリサーチによって可視化された実績を重視するため、悲劇性、登場人物の大きさで取り上げることを選んだのだと私は感じている。そうでなければ、より多くの人の関心を集めることはできないから、当然の判断だ。

 

件の飯塚幸三氏は名誉ある実績の持ち主、いわば強者で、話題性は充分だった。努力や精神の消耗なしにはつけぬポストに何度も就いており、寧ろ"有名にならないくらい"堅実な仕事を積み重ねていたとみえる。事故を起こすまでは、己の力で歩み成功を手にしてきていた方なのだ。

 

そう、事故をおこすまでは。

 

 

そして、事故は起きたのだ。報道を知り、私もまっ先に被害男性の人生を推し量って、計り知れない怒りと悲しみがあるだろうと考えた。自分もアラサーまで生きた身、配偶者を持つという事の喜び、関係を培うためにかかる労力は察しがつくつもりだ。およそ、自我を保つことすら難しい加害者への憎しみが被害男性を襲ったに違いない。故に私も、加害者には厳罰が必要だと考えた。

 

そして、この意見が私の最終意見となった。今後、この事件がどう運んでいったとしても、それは残念ながら私の知るところではないし、それを知るために時間を割くことは非合理だと判断した。兎角、重要なのは、再三になるが、加害者への厳罰は必要というのが私の意見だということだ。

 

 

この事故の件はメディアの思惑どおり、大変な話題となった。私の職場でも口々に意見が飛び交ったが、その中には私が疑問に思う意見もあった。それが、この記事を書くきっかけである。

 

どのような意見か簡単に説明すると「飯塚幸三ってクズだな。」といったような旨のもの全般となる。おそらく多くの人が感じたことであろうが、そこには虚しい真実が伴っているのだ。私はそれに気づいたので、これからそれを短く示す。

 

ことの経緯を辿れば、或いは本当に飯塚幸三氏がクズなのかもしれないが、ここで一度自分と飯塚幸三氏の歴史について振り返ってみるとしよう。すると気づくのだ。事一つ成し遂げず今やもうアラサーの私にとって、彼の前歴はあまりにも偉大だという真実に。そして今、事の表層だけを信じて飯塚幸三氏の人格を非難する行為。それを評価する。あまりにも虚しい行為だということは、言うまでもないだろう。

 

しかしながら、大変残念な事に、否、本当はわかっていての事と思いたいが、飯塚幸三氏という比類なき実績を持つ方に罵詈雑言を浴びせたがる人の多さ、それには驚かざるを得ない。その行為はとても空虚で、意義がないのに、まるで強くなるため努力した者がズルをしていて欲しいと願うかのようにだ。

 

私は敢えて加害者が凄い人だと先述した。それは、その人を叩く人だけの人、たった今逆巻く火に薪をくべるだけの人が、いかに虚しいかを指摘したかったからだ。

 

もし読者の中に、飯塚幸三氏を自分の下に位置づけている哀しい人がいたらば、そう言うやり方はやめて、この記事をきっかけに自分がどうなるかを考える人になってくれればと思うばかりである。

 

神は死んだ。

ニュースはいつも弱者の共感を煽るために、強者の不正、不手際、不実ばかりを示す。それは真実かもしれないが、数字を上げるために選りすぐったものでしかない。

 

今回のような虚しい真実に気づくため、重要なことは、もう百年近く前にニーチェが示している。

 

神は死んだのだと。

 

この言葉自体はとても有名だが「これはだれの言葉?」「ニーチェ」の問答をなす程度で認識している人も少なくない。

強者の不実が露呈して喜ぶという行為は、まさにこの言葉の真意を捉えていませんと体現するようなものだ。

この言葉は深い。そして、弱者の甘えを一切許さないのである。

 

 

世界には善悪という考え方がある。強弱という必然もまた同時にある。

 

弱きに生まれ誠実に生きるなかで報われない時、人は神様に祈った。心の隙間を埋めるように神が居たのだ。彼ら(或いはそれが奴隷だったかもしれない)は、苦痛に耐えその生き様を高く評価してくれると信じていたのだ。ただ、革命を起こす勇気もないままに。

 

そして、かれらは自分を統べる者のことを悪とした。もしかしたら、本当は蹴落とされぬ為、必死で厳しい教育に耐え、自分を高めている可能性には見向きもしないで。そして、弱き者の中に生まれた神は、自分達を虐げるという悪事を働く統治者に裁きを加えると者として考えられ始めたのだ。

 

何と都合のいい、弱者を甘えさせるだけの存在だろうか。

 

そしてニーチェが「超人」の思想と「永劫回帰」に気づかされたとき「輪廻転生」に基づく「生の善悪評価」は意味のないものとなって、弱者の思う神は死んだ。(私の解釈が間違ってたらすみません)

それは、然るべきことだろう。

 

本当は現世を諦めて、愚痴を並べながら、ただ辛い事を耐えるだけになっていて、その事が自分の選択になる結果だと受け入れもせず。強者の不実を見た時、フラストレーションを炸裂させ、諸手を叩いて大喜びする存在。それを許す神は、とうに死んでいるのだ。(その結果、ニーチェは神を不在とした気がしますが、私個人の哲学的には神はいます。)

 

話は戻るが、飯塚幸三氏の事件を見て、なんやかんやと言う中で愉悦に浸る人。それがただのストレス解消だと分かっているなら、好きなだけそうすればよいでしょう。しかしながら、恥ずかしい奴だと思われないためにも、自分がどんな人間か見直した上で、声のボリュームは整えてください。

 

どんなに偉い人を叩いても、私たちはその下でサラリーマンをしているだけなのだから。

 

終わりに

これは前も記したかも知れませんが、(或いはまだ下書きか)私は政治家の中でも、大臣を任命される人は本当にすごいと思っています。

 

TVショウがどれだけ彼等の不実を示そうとも、その考えは変わりません。

 

少し砕けた話をしますと、そもそも政治家になろうと言うのが私からすると拍手モンの考え方なのです。だって彼らは楽しい事だけして老後を過ごすお金を持っている(可能性が高い)のでしょう。

 

私ならわざわざ矢面には立ちません。ゲームして文章書いて投稿して、リーマン時代にできなかったことをつぶして生きるでしょうから、彼等には何も言えないのです。

 

…とかく、強者と弱者を知り、どの位置にあって、どこに立ちたいのか、そういう事はアラサーのうちに考えておきたいですね。

 

それではまた。