ゴーレムの伝承〜個と集合と〜
導入
私は厨二病患者にも色々いると思うのですが、現役中学生がかかりやすいのは邪気眼厨二病だと考えています。
可能性の塊たる中学生がオカルト的な話や、不確かな闇、自らに封印された力等にロマンを感じるのは仕方ないと思います。私は現役の頃、邪気眼だけは発症すまいと心がけていたので邪気眼厨二病を内心小馬鹿にしつつ斜に構えた厨二病態度が隠しきれないメタ厨二病でした。
今も厨二病ではないか、という話はとりあえずよしましょう。
本題に入ります。
ゴーレムという言葉はもはや知っていますか?と聞く方が失礼なほど、ゲーム世代にとって耳慣れたものでしょう。
そう土や岩が人形を成し、呪術の力などで自律して動く存在のことです。ゲームでは街の防衛のために作られたり、逆に怪しげな魔導師によって都市国家を破壊するために生み出されたりと八面六臂の活躍を見せます。
いずれも巨躯のものが多く、ゴーレムと言えばデカイ岩の巨人とイメージする方は少なくないでしょう。
たまに有名アニメをオマージュしたロボットだったり、帝国軍人の偉い人が実はゴーレムだったりもしていて、活躍の幅を広げるのは良いのですが今回は先述のイメージでご対応願いたいと思います。
つまりゴーレムは小さな岩や砂が大きな体になり人格のようなものを持つものなのですが、日本にはそんなゴーレムに似たようなものがあります。
法人です。
もうお分かりかと思いますが、ここで導入は終いです。ここからは私が日本人にありがちだと思う在り方について語っていこうと思います。
個の消滅〜Individual extinction〜
日本という国であっても、そうでなくても、おそらく人には二種類の人が居ます。自分なりの表現やアイデアで稼ぐ人と既存の流れから求められていることをこなして稼ぐ人です。
私のイメージで言いますと前者はフリーランスや手につけたスキルでの自営業、職人、作家、芸能人などで後者には、サラリーマン全般、工場作業者、技術者などがあたります。
個はとても弱いです。本質的に言えば個でありたい場合、農作業に追われることとなります。
私たちが社会を形成した理由は、役割を分けることでそれぞれがその分野で高度な技術を追求できるようにするためであり、裏を返せば社会があることによって農作業以外のことに取り組んで生きることが出来ています。
しかしながら社会というシステムは全ての人に農作業以外のやりたいことをやらせる夢のようなものではありません。農作業をしない者は社会の要求に応えていなければご飯は食べられないのです。例えば食料生産のように欠くことのできない仕事は勿論それに魅力を感じ取り組む人もいますが、社会の要求に応える形で自らの本意と異なる不可欠仕事に取り組まねばならないケースがしばしば発生します。
個の方にも少々問題があり、多くの人はガイドラインが無いと社会の要求とはなんぞやという疑問に苛まれます。義務教育を終えた後、何もない荒野に放り出されて何かして稼げなければ食えませんと言われたら狼狽える方はきっと多いです。
故に法人、すなわち会社が不可欠仕事を用意して待っており、サラリーマンという生き方があるわけです。法人は社会に対し何をしたら飯が食えるのかわからない人に金と仕事を用意してくれて飯の食い方そのものになってくれます。
こうして、路傍に転がる石は法人というゴーレムの一部となり、時にスライムを踏み潰すことで愉悦を感じながら自らの意思を溶かしていくのです。
何もゴーレムの一部になることは悪いことではありません。弱肉強食の魔物達がはびこるようなこの世界、頼もしいものの一部となって生きるのは道理ともいえます。
ただ、残念なのはゴーレムの一部になるとゴーレムの意向によって見える世界が切り取られることと、かつて町の中で守られていた時は人だったのを忘れてしまうことです。あまつさえゴーレムの一部たることさえ忘れ、さも当たり前に人間をやっていると言いだすことです。
ゴーレムの一部となった者は、他の者もゴーレムの一部になることを望む傾向にあります。また最大多数だという強い自負から、自らを常識のある人だと無条件に信じやすく、自分の在り方に疑いを持たなくなる方が多いです。
普遍の真理として、世界は時とともに変化します。若い頃に培ったとするものを使って中年期から老後までを楽に生きたい人は多いのですが、古くなっていくものを信じていては楽に到達できません。
にもかかわらず、ゴーレムの一部になった者はそれに取り組みます。中枢が受け継ぐ伝統の中により強く馴染みながら個としては消滅するのです。
既製品の社会において、やはり個は脆弱です。個として世に立つには努力と覚悟と運が必要になります。だからといって、されるがままゴーレムの一部になるのは間違いだと私は考えます。
では何が必要になってくるかを次の章で示したいと思います。
典型的大人〜Typical adults〜
世界は全ての人を選びません。ゴーレムの一部になることは仕方ないことです。
今貴方がそれを言ってはと思われたかもしれませんが残念な事実でもあります。これまで私は上には上がいて、小さな自分とはという少々理想を追いすぎた話をしてきました。なので下には下がいる話をこれからします。
私の中で「典型的大人」とは、ニーチェの言う末人のことです。
一人の男を例として出しましょう。男には妻子がおり、年収は450万で30代後半、出世を諦めて毎日似たような内容の仕事をこなすことでそれなりの生活をしています。趣味はパチンコ通いで、月3万の小遣いは殆どこれに消えています。
これを幸せな生活ととる人は、おそらく居るでしょう。世の中にはこの人よりも絶対的不幸な人がたくさん居ます。凄まじい幸運に恵まれ人生を謳歌出来ると思った矢先、とんでもない病魔に犯される等です。
平凡でそれなりな生活は確かに幸福なのです。
しかしながら、これこそが末人です。給料を家庭とパチンコ屋に運搬するだけで、仕事においても創造的でない(要求されるレベルは満たす)恐ろしい状態、おそらくは健康に感謝することを忘れ、給与面で不満を持っていることでしょう。なによりこのまま定年を向かえられそうなところがこの人を末人たらしめます。
ただ、これもまた仕方がないことではあるのです。もしかしたら薄々自分が末人であることに気づきながらも年齢、妻帯者としての責任、未知への恐怖から同じような毎日を繰り返しているのかもしれません。
私がただ願うのは、想いを表現することだけはして欲しいということです。勿論、私が他人のブログを穴が開くほど読めるのかと言われればそれは不可能です。ゆえに見ていないところで確りしているのかも知れません。それはいい事です。
例えば、どこか同じような日常を繰り返してしまっているという疑いがある大人の下で子が育ったとき、子の人生においても同じことが繰り返されるだけだと私は思います。これは悲劇です。真に新しく生まれるものがないのです。だからこそ、人の中から生まれる想いは表現される必要があります。
私自身ブログを始めて感じたのは、繰り返す日常の中にも僅かな変化や自分と他人の違いなどが見受けられ、都度考えて記事にすると培われていくものがあるということです。
それは文章に関して洗練されたということでなく、考え方についてのことです。記録をつけてわかったのですが、自分も言うほど関心が広くはありません。
何度目かの記事を書いているときに気づかされたのですが、記事にして残していなければ同じ思考を繰り返していたであろうことが多くあります。
つまり、記録をつけていなかった場合の私は大衆受けの悪い気難しい話をずっと頭の中で繰り返していただろうということです。賢くなった気でいながら、回し車の中で走り続けるハムスターのように何も生み出さずにいた可能性があるのです。
多彩な毎日に振り回されているならまだしも、繰り返しの中で記録をつけないのは危機的状況です。
ゴーレムの爪先程度になった挙句、ハムスターの謂れなど流石に腹立たしいことと思います
これを機に時間の無駄だと思うことひとつ(私の場合、据え置きゲームでした)をやめて記録をとる時間を作ってみてはどうでしょうか。
終わりに
ゴーレムの伝承における肝心な部分を話忘れていました。それは崩壊の呪文です。
正直に言うと、ここを書くまでずっと「真理(emeth)」と唱えることだと思っていたので「真理でどつくと崩壊する法人」って気持ちいいよねみたいな話がしたかったのですが、調べてみると違いました。「e」を消して「死んだ(meth)」とするのが正しいようです。
法人が真理によってできたとは思い難い(個人の感想です)のであまり上手い喩えではなくなりますが築城三年、落城三日が叫ばれる昨今、信用を一突きされれば崩れる様はやはりゴーレムに近いかも知れません。
不勉強を晒してしまいましたが、いつもの事なのでふてぶてしくもこのまま載せることでしょう。私はそういう人間です。
或いは私という人間が、私であるためにそうするのかもしれませんね。
それでは、また今度───。