厨二病日記

取り敢えず患った不治の病が厨二病でよかった Twitterは @Pott0N_mush

ダメな生き方について

はじめに

生き方には、良し悪しがある。

 

そして勝ち負けもある。だかそれは、貧富に基づかない。考えてもみたら分かることだ。お金という文化を持たなければ、それを多く持つかどうかなど意味が無いだろう。

 

では何が、人生の良し悪しを分かつのか?

 

それは「考え方」である。誰とも知らぬ人の日記を読んでまで、何かを得ようとする皆様ならおそらくは問題ないと思うが、「悪しき生き方を避けるため」以下に私の考察をまとめ、記しておく。

 

考え方への認識が浅い

まず、何よりも先にこれが多くの人を貧しくさせる問題である。

 

どうしてそうなってしまったのか?これに対し、舐めていると思われるのは百も承知の上で敢えて言うと「日本人の人生」が「楽勝」寄りだからである。

 

無論、人とは世にある要素の組み合わせ、「難病」「極貧」「先天性障害」など、不幸と決めつけるには失礼であっても、「楽勝」と言い難いこれらの要素を持ち合わせることもあるだろう。

ただし、それらはあくまで例外だ。

 

殆ど多くの日本人は、子供の頃を真面目に(それも学力さえつければ無思考で)「楽勝」の人生を送ることが出来る。前述のことができるようになった人は、経営者、支配者、すなわち勝者の下で、奴隷の鎖の輝きを隣の奴隷や新入りの奴隷に見せ付けるながらプライドを守り、ただ堪えれば、それ程多くの責任を持たず生きることが出来るからだ。

 

こうした奴隷は仕事に思考を縛られる。金という人参を垂らされた馬なのだ。走っていれば気が済む、大金を渡せばすぐ引きこもりそうな、単純な人間になっていくのだ。無駄に合理的で、守ることしかしない。

 

またそれ故に、仕事で複雑なことを考えているから(それはそうであるとしても)と本質的なことは何も考えずに生きることになる。

 

死後、神前にて反省するべき人間にならぬよう。自分が哲学的にはどういう立場に立つのか、自分で決めておくよう勧めたい。

 

言葉を誤用する

非常に良く見るのは後述の三つだ。大人、仕事、現実これらである。

 

まず、大人と言うのは狡猾であったり、思っていることと違う表情をして我慢する者を表すことがままあるが、勿論そんな意味は無い。

それをしなければならない程、若い頃に頭を使えなかった人間が、カッコイイ言い訳を探した結果がそういう大人表現なのだ。

 

第一に狡猾に罠へかけることは、卑怯である。

私はなにも、それをするなとは言わないし、必要な時があることも知っているつもりだ。

ただ、そうすべき時にそうしたならば、私は卑怯な手を使ったと何故表現しないのか疑問である。ましてや大人の世界などと表現すると、それを目指してしまう卑怯な人間が増えるではないか、それは邪悪で、罪で、ただただ自尊心を守る行為だ。即刻やめるべきである。

 

もう一つの意味、感情とは別の表情を浮かべた時に大人と表現することも、出来れば辞めた方がいい。

調和のために必要だとして笑顔を振りまいたならば、それは大変立派であるが、やはり耐えたとか、やり過ごした事実から目を背けるのはよくない。仮にも大人と言うのは子供から成長し、成るものである。

そこに後ろめたいものを結びつけたがるのは、弱者の自尊心都合だと言わざるを得ない。

 

仕事、これは問題外の誤用がある。あるべき姿を間違えているのだから、当然と言えよう。

その間違いとは仕事が厳しいということ、実は当然と思っているこれ、半分くらい間違いなのである。また、これを使って厳しく叱責してしまう者に限っては全てが間違っているとさえ言える。

仕事の源流は農耕もしくは狩猟である。衣食住などと言うが、究極、生物が生きていくために必要なのは、食と性交渉と眠りだ。つまり、仕事とは食に関すること、農耕、狩猟であって、人類が戦うべき相手は自然である。ゆえに、人間が人間を働きたくないと感じさせるために仕事は厳しい等と言うのはナンセンス、そう、論外なのだ。

所詮、自尊心を守るために、自分は厳しいことを耐えて生きてるよと誇示する自慰行為のために使っているのだけなのだから、そういった誤用はやめるべきである。

 

現実、これの誤用は非常に良くない。誰が流行らせたのか、この言葉は何故か人の挑戦を妨げる使い方をされているのだ。おそらく夢の対義語としてだろうが、全くの誤りである。

 

まず人の挑戦と結果は未来に存在する。確かに夢追い人はそれを夢物語として語るだろうが、実のところ、未来の現実について話しているだけで、寝ている間に見る、全くのデタラメとは大きく異なるのだ。何か挑戦してみないと分からないことに対して、こういうリスクがあるよ、前例はこうだよと示すのは正しいが、現実を見ろと言うのは誤用、やめるべきである。

 

また、現実的な生活を略して現実という輩が居る。これはまっこと迷惑であり、誤りだ。まず、現実的と現実は別の言葉、現実の中には自己実現を果たした勝者が存在しているのだ。

 

こういった現実の使い方をする者は気づいていないのか、それとも気づいていてそうしているのか、現実的至上を掲げて、結局現状維持の向上心に欠ける生活を送りがちである。それは、到底評価できない。

 

自らが向上心のあるもの、漱石に言わせれば馬鹿でないものと胸を張って言うためにも、現実を現実的と取り違えるのはやめるべきである。

 

強者は悪いことをしてると思う

単純な話、これは違う、強者は自分よりも多くの責任を負っている。組体操の一番上は一度下がサボれば命の危険に晒されるのだ。

 

語るに多くない。ノブレス・オブリージュと言う表現もある。

 

何より、これをよくするものに限って人生全体への思慮が浅い。青春時代をいい加減に謳歌したものと勉強をしたものとで生まれている差だと痛感したりしないのだろうか、自分が呑気にしていた頃、強者は人生謳歌する土台作りをしていたんだと考え、反省し、自分を高めようという意志が、強者は悪いことをして登って行ったのだと思うものには欠けている。

 

すなわち、これをする者には向上心がないのだ。よって、強者と悪者を安易に結びつけるのは控えるべきである。

 

人の話を本気で信じない

自分を責める言葉というのは信じたくないものだが、本気で信じて自分を変えてみると、あとで良かったと思うこともあるものだ。

 

私は修士卒であるが、社会人になりたての頃、高卒と思しき人間に「バカだ」「中卒レベルだ」等と言われたことがある。それ以外にも厳しい説教を何度か受けた。

修士過程を出る直前ですら、同級生に比べ圧倒的に長い時間研究に費やしたにも関わらず「お前は社会に出るべきではない」「お前の修了に前向きな他の教授にやめろと言った」等と言われてきた、その後のことである。

 

だが私は運が良かった。この間には大手一流企業研究室で働く、自己実現者集団と能動的に働いた期間があったのだ。(派遣で正社員登用もないのでやむなく退職したが)そしてこの時、己が研究室に長い時間篭もり研究に努めたことも、評価されるべきものではなく、低スペックな自分のせいだと思わせられたのだ。

正しく生きた人間は、素晴らしい集団を形成し、自らの意思で仕事へと向かう。そこには、それに至るために「やらされた実験や勉強」をした訳ではなく、「必要と考え取り組んだ実験や勉強」を持つ者がいた。

それを知ったからこそ、自分はまだ責められる立場にあると思えたのだ。

 

この後、恥ずかしながら高卒の方とご一緒した職場は退職となり、今は中堅企業の総合職社員となっている。その結果から鑑みるに、自分を責める言葉を本気で受け取ったことがよかったのではないかと考えている。

 

結論として言いたいのは、都合の悪い人の話というのは直ぐには嫌な思いしかないが、後に生きてくるから信じなさい、という事である。

 

実はここ、この後の格下は無視しろと、少し矛盾を感じさせる項で申し訳ないが、内容の違いと分かれば矛盾もないと伝わるはずだ。それは読み手が賢明であることを信じる以外ない。

 

自己肯定感が低いのに腰が重い

謙虚、それは美徳とされることだ。だが、セルフハンディキャッピングという言葉もある。それは俗に言う「ハードル下げ」だ。

 

環境が違えば、この考え方は違ったかもしれない。ただ私の務める会社では、自分は大したことないですよなどと言うと、やらなくても済んだり、大したことないから出来ないの因果が成立して、軽めの仕事で済まされるようになる。

しかも、一つそこそこの仕事を納得して持てば周りも指摘し難くなり、プライドや出世をある程度控えさえすれば安定した椅子が出来上がるのだ。(無論、全てがそうではないだろう)正直に言えば、これ程タチの悪い者はない。

 

確かに、ただ生きるだけなら、或いは守りたい家庭があり、納得しているならばそれでいいのかもしれない。いや、それが最もいいという考え方すらありうるだろう。だが、マズローの欲求5段階説に基づき、より高度な領域を目指すならば、そうはいかないのだ。

 

そも、自己実現に向かいたいという意志があるならば、自己評価は正確でないといけない。謙虚を美徳とするあまり自己評価を不当に下げると、自分の可能性を狭めかねないのだ。それは危険な行為である。

また、成功者は口々に根拠の無い自信こそが一番必要だったということを語っている。このことからも咎められる行為だと言えよう。

 

自己評価を下げ、やれること以外に腰を重くし、楽して生き延びることが悪いとは言わないが、そうして楽な暮らしを手にしても決して尊敬されることも、誇れることもないことは間違いない。そして、それはきっと凄く退屈なものでもある。

 

真に楽しく生きたいならば、ハードル下げの癖、楽したがる癖は捨てた方がいい。確りと自分の価値、可能性を認めて、重い腰を上げて挑戦と失敗のある道を歩むべきである。

 

強者の悪口を言う

簡単に言うのは、どう考えても頭が悪い。

 

例えば東大生が転んだとき、それに群がる無名大学出身者を見る。私の目に哀れなのは転んでいる方でなく群がってヘラヘラ笑っている方だ。

このように大物がコケる度、デカい声でデカいことを言う普通の人を見るが、その度、そんな自慰行為をひけらかす恥知らずなどには成りたくないなと私は感じている。

 

私が強者の悪口を言わない理由はとても簡単、特に東大生の場合はシンプルで、自分が東大に入る程の人生巧者でないと分かっているからである。

 

そも、私の考えでは行動こそが他人に伝わる全てで、かつ理解していることを示す姿勢でもあるため、安易に指を差して笑うことは、そうした分別がないと主張していることになる。

これを言うと、心ではそういった分別がありますだとか、聞かれたら分かっていると答えますだとか、そんな主張する輩がいるが、それは一切の意味を持たない。伝わったことが全てなのだ。

 

つまり、指を差して笑ったが最後、東大の例で言えば「自分が東大に入る程勉強しなかった事実」などを蔑ろにして、悦に入る程度の低い人間であることが示されることになる。それは誰にとっても不本意なことだろう。

先程、自己実現のために根拠の無い自信を持てとは言ったが、人を貶すための根拠の無い自信は恥ずかしい物にほかならない。

自分を客観視できていると証明する為にも、そういったニュースにはコメントを控えるべきである。

 

成功しなければ価値がないと思う

阿呆。であればどうして挑戦できるのか?という話である。

 

確かに失敗をすれば、その先の人生は厳しいだろう。何かお金をかけていたとしたら、それも見かけ上は無駄になる。だが、そのリスクを考慮に入れても。挑戦とその経験の方が人生において大事なのである。

月並みな表現だが、若いうちの苦労は買ってでもしろということだ。

 

そもそも、どんなにお金を貯めた(無論、お金持ちになれば成功ではなく。生きたい生き方で生活が不自由しないことが重要。)とて、人は等しく死ぬ。

寧ろ、健康を著しく害して高額を稼いだとしても、翌日に死に、やりたいと思っていたことも出来ずにこの世を去ったならば、そこに何が残るのだろうか。いや、何も残らないはずだ。

つまり、お金をかけて失敗するかもしれないことに挑戦すること(それが本当にやりたいことに繋がっている)こそが、お金の奴隷を生きず、人を生きる為に最も大切なことなのである。

 

ただ、無責任かつ無鉄砲な物言いをした私から一つだけ守りの言葉を言うと、挑戦する前に可能な限り悪質な借金をしないで挑戦できる環境作りに努めた方が良いと考えている。

 

大局を見ない

うちの会社では伸びなかった人材ほど、目先の損得に囚われている。また、利己的で容易く人を馬鹿にする所がある。何れも浅慮であり、敢えて強弱で言うならば弱者他ならない。

 

大局とは言いすぎたかもしれないが、周辺にいる人は繋がっており、その全てと未来を共にすると理解してない行動を取る者を揶揄したいのである。

 

残念ながら、本意でない仕事であろうと、いけ好かない人間だろうと、真の強者を表現したいのであれば、良く思っている風に見せなければならない。己を切る部分もあるだろうが、自らとは社会に比して小さいのである。

 

真の強者は知っている。良き姿勢、良い人当たり、無償の親切が、巡り巡って自分の周りを良い人だらけにすることを。

 

環境に恵まれて、強きに在り続ける者は貧しい者よりも、単に人格が優れているのだ。

 

格下にかまう、弄る

自尊心とは厄介なもので、格下が居るということだけで守られてしまう。

 

隣に格下がいることで、山ほど格上の人間がいるにも関わらず怠け始める者がどれほど多いことか、そんな格下を弄って悦にいることで自尊心を保っている者が、向上するはずもない。

それだけでなく、楽しいからと弄りに巻き込んだり、井の中で威張りはじめたらもう終い、本人は自分を偉大だと思い、周りには内心冷めた目で見られることだろう。

 

格下の存在を良い意味で無視し、上を向くことが大事である。

 

全力でやってる事がない

ない。どこかに余裕を演じるためのスペースを作っていて、最終的にそれは言い訳置き場だったという事が多い。

 

ここで敢えて良い要素のように言うと、論理的で賢いように話をするには、全力で物事に取り組まない方が望ましい。あくまでも個人的な、けれども、経験に基づいた意見としてその根拠を述べると、全力で取り組むという行為は理不尽と出会う確率を引き上げるものだからだ。

 

例えば貴方が野球が大好きな人間に生まれ、必死で取り組んだとしよう。努力は必ず報われると、色恋、娯楽全てを無視し、一心不乱にバットを振り続け野球を学ぶ事も忘れず。指導者に寸分の誤りなく育てられ、あらゆる努力を尽くした結果、何故か球速が出ないとしたらそれはなんと言えようか。それは、理不尽に他ならない。

 

しかし、ここでその人は俯くだろうか?否、それは決してない。色恋、娯楽を捨てられるほど強い者なのだから当然だ。そして、この人は限界という自分で決めた檻の中に閉じ込めてしまう呪縛から、寧ろ解き放たれる。

 

神の与えた限界までは走って良いと、走ってみないとわからないという事を理解するからだ。

結果、その場限りの合理性で線を引いた。小さくまとまるためだけの面白くない、思い込みの限界は無くなり、成功するかもしれないと走ってみるだけのことがもつ価値を知る面白い人へと進化する。

 

そこには合理的で透明でくだらない歯車から「夢見がちな子供」と批判されることもあるかもしれないが、そんな自分の全力を見に行ったことの無い人は、無視されて然り。最終的にその人生にはとても大きな良し悪しの差が生まれていることだろう。

 

現代において最も効率良く自尊心を守る方法は、恐らくインターネットで正論を語り、誰かに承認されるという行為を続けることだ。

 

だが、とても簡単な話。人間社会は論理的に正しい事ばかりで回ってなどいない。盾ばかり強化しても強大な敵に打ち勝つことは出来ないという事である。

 

最大値で自分を語る

つまらない人にとても多い。これに関して言うことはほとんどない。それは過去です。今の貴方は、大概の場合それ程でもないかもしれません。

 

何かの大会で優勝したとか、賞を受賞した等伝わる実績でもないものは特に示したり、自分をよく見せるためにわざわざ使うもんでもないです。止めましょう。

 

例外を中心に据えて否定する

気づかずにしてしまう人が沢山いる話。環境と人の関係性を分かっているようで分かっていない人がしがちである。

 

成功者には「最初から成功できる環境にあった人」「本人の異常な精神力によって成功を得た人」がいる。初めに認識して欲しいのは、後者が環境を無視して成功した理由が「異常な」精神力であることだ。すなわち、後者の存在は明らかな例外で、一般にはあてはまらないのである。つまり、成功する者を育てたい場合、その対象となる子は殆ど後者ではないという事になる。

加えて、先に説明しておくのだが成功できる環境を整えるには、よほど家柄が良くない限り莫大なお金が必要である。前者として成功させるのにお金が必要という事なのだ。

 

しかしながらよく見かけるのは、後者を信奉した過度な根性論である。自分の子供が環境を嘆いた発言をしても、後者を持ち出し突き放し、寄り添わずして押さえ込む、お金を使いたくないからだ。そして、その上で才能を語る。例外的な成功者を持ち出し、世に多くある成功例とは異なる稀有な成功を信じてしまうのだ。

 

残念な事に、そうして育てられた人は同じ事を繰り返す。成功するために必要なもの「努力」と「環境」ではなく「類まれなる才能」だと信じてしまっているから。こうして格差は広がっていくが、それはどこかで投資に踏み切れない者達にも問題があるということである。

 

蛙の子は蛙です。自分以上の成功を望むならば自分を超える投資、環境作るベガなのである。

 

終わりに

長々と語っては来たが、結局何が言いたいのかをまとめると、然るべき事として、弱い立場にある者(予防線ですが当方も含む。)が存在しているということだ。そして、傾向として、その立場にあるものに限って根本的な考え方が間違っている事が多いと言うこともである。

 

おそらく仕方の無いことなのだ。それは弱者の持つ間違いである考え方は甘く、そして、より良い考え方として私が考えているこれらが、「お前が今弱いのは、お前の人生がヘタクソだったから」という誰であっても向き合いたくないことをベースに突き詰めていったことであるから。聞き入れられなくても、やむを得ないのである。

ただ、はっきり言えることがある。それは格差や現状の成否と向き合うにあたって「アイツは運が良かった」「才能があった」などを言うよりも「自分に何が足りないのだろう」「自分が失敗してるとしたら何がその原因だろう」と考えた方がいいということである。

 

さらに、重要なことを付け加える、

それは、実は路傍の石である私でもこれくらいは考えているという事だ。

これを読むたった数名も、おそらく考えていると思うので、何もマウントを取ろうと言う訳ではない、単純に、啓発的な内容を書く、つまり考えているのは、本を出すような偉い人、学歴がある人のような特別な成功者だけでは無いという事を伝えたいのである。

啓発的な内容を考えること自体、特別な人がすること、という括りにそれを逃がすと、また甘い考えが始まってしまいかねない。それは、何よりこの記事で初めに書いた「考え方についての認識」を高められない事であり、意図に反することなのである。

 

もし今、これを読んだ人がそこまで「考えてなかったな」と感じたならば、是非とも「考えて」欲しいと、それこそが私の意図であり願いだ。

 

また暫く更新は間を置くだろうが、そろそろ疲れてきたので今回はここで終わる。

 

願わくばこれを読んだ人が、ダメな生き方を見直し創造的な人物として世に名を馳せて欲しいと記して

 

それでは