人生決算(死なないよ)してみる
失敗したか成功したか
ともかくも、先ず初めに言いたいのは、私はこの記事を月曜日の仕事を終えた。サラリーマンという人種にとって何より貴重な回復時間に書いているという事である。
今でも凄くゲームがしたくてウズウズしているし、出来ることならドラゴンボールに描かれている精神と時の部屋のような、時間を消費しない場所で書ければと強く思ってもいる。
だが、やはりどうしても、残しておきたい考えがあって、今ここに記すと決めたのである。
さて、今回のテーマは人生の成否についてであるが、またしても遠回り。先に言及しておくべき立場があるだろう。そう、それは「人生を成功、失敗の二元論で語るのは薄っぺらくないか?」というものである。
これに関する私の個人的な意見は「ただの誤魔化し」に尽きる。論拠としては、そう語る人間にも誰かを羨ましいがる気持ちがあると感じるからである。
誰かを羨んだり、自己嫌悪に陥ったり、そうした当たり前の人間的な応答。むしろ、消えていては不自然な感情の根元には、誰かとの比較があり、そこには成功、失敗の差がある。消すことの出来ない感情の中にある成否を、なるだけ見ないようにすることは誤魔化し以外の何ものでもないだろう。
軽く遠回りを終えたところで、本題に入る。それは齢30を前にして、余りにも急いた結論かもしれないが、残すという事に意味があると信じたい。
貴方は人生に失敗しましたか?
どちらとも言えない。
そう答えられれば、どれほど簡単だっただろうか、現実は無情にも、とてもそう思うに丸をつけさせる。そう、私の「これまでの人生」は端的に言って、「失敗」だらけなのだ。
無論、これには原因がある。今だからこそひしと感じる原因について、これより記していこうと思う。
失敗とその理由
一つ目は、当然最大のものだ。「最初に抱いた夢を、せめて、強く挫折するまで追わなかった。」という事である。特に重要なのは「追わなかった。」という事だ。追ってさえいれば、叶わなかったとて良いのである。
私が最初に抱いた夢はゲームクリエイターになる事だった。理由はゲームが発売前に出来るからだとか、そんな甘ったるいものだ。否、理由など、さして問題ではない。重要なのは、無垢な私が「クリエイター」を夢見たという事である。
子供の頃に抱く夢には原初の欲望が反映されると、私は考えている。例えば「凄い技を見せつけるプロプレイヤー」になりたいという夢や、「沢山の人の命を救う医者」になりたいという夢には、「既存の大きな舞台で自分も活躍したい」とか「沢山の人を救う事で共に笑顔でありたい」という欲望が反映されているのだ。
これらの欲望には最初から個体差がある。私の場合は「ゲームクリエイター」つまり「私の内側で創造した新しい何かを表現したい。それにより多くに認められたい。」という欲望が反映されていると考えられるのである。そしてこの欲望に、本質に向き合えなかった事こそ私の失敗なのだ。
もし向き合えていたならば、少なくとも今「考えを生む」等と言って、騙し騙し創造欲を抑えるしか出来ない状況に陥るなどという事はなかったであろう。或いは今よりも遥かに低い賃金で労力を買い叩かれていたにしても、「受け入れ難いもの」ではなかったかもしれない。
これが私の第一の失敗である。
次の失敗は、前述の後半に連なるのだが「お金や社会的体裁を優先して仕事を決めた。」事である。そして、第一の失敗と第二の失敗が殆ど私の失敗における全てだとも言っておこう。
先ず何よりも重要な、自分への一言は「選択権はずっとお前にあったんだよ。」である。
多くの人間は、とてもプライドの高いもので、自分の人生が上手くいっていない事を、環境のせいにしがちである。
勿論、人の道を勝手に決める親も居るので一概には言えないが、今私が金銭的には安定したサラリーマンをしている理由は、本当のところ「自分がそうしたいと言った」からに他ならない。けれども、世にいる「仕事を辞めたいと連呼しながらもサラリーマン続けてしまう人」の多くは「金銭的な事情」を主な理由として、「何か」に「やらされている」と主張してしまっているのである。
そう、フラストレーションの原因が自分の選択であると、彼らのプライドは認めたくないのだ。だが、真実は無情にも「そう」なのである。
それが分かったにせよ。何が失敗かと思うことがあるだろう。何分、自己実現の末、サラリーマンに区分される仕事をする人も多数いる。説明が不十分なのだ。
即ち私が就いている仕事と、原初の欲望との関係性が説明されていないという事である。
ざっくりとした説明をすると私は今、コストカットを目的とした事業の効率化を仕事としている。効率化のアイデアを創造すると捉えれば、何も悪くないように感じる人も居るかもしれないが、実際問題この仕事、私の原初の欲望とは大きくかけ離れたものである。
第一に、創造物を誰が楽しむでもないという事がある。万が一、私がやる気を出して懸命に取り組んだとしても、それは社内の人に、しかも多くの場合否定的に評される。何が楽しかろうか。
また、今やっているワークの行先はどうだろう。残念ながらビジネスだ。楽しむは最初からこちらの間違いだとしても、笑顔にすらならない。人が考え出したはずのお金に喜楽の感情が虐げられている事を実感するばかりである。
その上で、私の仕事は社会に与えている影響も分かりづらい。コストカット事業故にだ。それこそ倒れて値上げがあれば文句は出るが、今の値段であることはあたりまえ、誰にも感謝などされないのだ。
尚も自分の仕事に苦言を呈し続けると、クライアントからの縛りこそあれ、最終的には無から創造するクリエイターに対し、私の仕事はより厳しい制約を受けている。実績のある方法との徹底比較や、新規物品取り扱いに関する厳しい審査等だ。
正直、この段階で既に、最早何もクリエイティブでは無い。既存の物をちょこまかと弄り回して仕事をした顔する以外なく。それは何も新しくなくて、とても退屈でなのである。
一言で言うと、私の仕事は私の望んだ物と大きく異なるのだ。それも、やりがいを見出すという考えにシフトすることすら困難なほどにである。
けれども、この仕事に私が就いた理由については、私が選んだからだとしか言いようがない。かつての私は人の目を気にして、大多数に溶け込むことで否定されない安心を、能動的に選びとったのである。
例えばの話、今でも私は貧しく、聞こえが悪く、将来性が薄くとも、創造的なフィールドに打って出ることは出来る。絵であれば、描いて売ろうとしてみれば良いし、文章であれば書けば良い。音楽もひたすら手探りで打ち込みを続けたり、鼻歌を曲に落とすなどしてみれば良いのだ。それをしない(してるかもしれないけどね。)のは、ただの甘え。若しくは思いの外、サラリーマン生活を気に入っていると言わざるを得ないだろう。
そして、このような支離滅裂な人生を歩んでいる事の根本原因は「自我の目覚め」が遅れたこと、「努力と挑戦」を怠ったこと、どちらもを通す勇気が無かったことと言える。目的意識もなく学校を押し出されて、ただ社会に入り込んだのだ。加えて、安定という名の幻想を信じ、精神を鑑みなかったいい加減さは正に失敗の原因と言えるだろう。
少々長く、右往左往、内容の重複もあったかもしれないが、ここまでが私の第二の失敗である。
なんとも情けない話だ。何故少しの勇気と、或いは我儘と言えるかもしれないものを、恐れることなく口にしなかったのだろう。私が確信している真理の一つとして、本当の大人になるにあたり、本当の子供をやったかどうか?はかなり重要である。
私は「自己中心的」を咎める風潮に騙されて、幼い頃から「忖度」ばかりをし、内容の無い公務員だかなんだかの夢を語って、重要な課題を後回しにしてしまった。
もしこれを読む奇特な子供が居たら伝えたいのは、「自分の目標に向かう為のことなら我儘でいい。」それだけである。
事実から見えるもの
さて、何もずっと落ち込んでいる訳にはいかない。失敗したと悲嘆に暮れていたら、救いのように心臓が止まる訳では無いのだ。
失敗した人にもどうせ明日がやってきて、何かを守りながら生きなければならないのである。
そして、私は今、悲しむばかりでもないと考えている。だからこそ、この記事を書いている訳でもある。漸く、見えてきたものがあるのだ。
最後にそれについて話していこうと思う。
現状は暫くの間変わらない
これは全くの事実で、仕方ない事である。
人生とはと考えて、生意気を言っても、或いはそれがより良いものであろうと、気づけば明日に変わる訳では無いという事だ。
だからこそ現状に目を向ける事はとても重要だ。そうすると思う事はシンプルである。私は現状を維持できており、尚且つ適度に創作にも取り組めている。恐らく欲の弱い人であれば、ある程度恵まれているとさえ言いそうなところだ。正直、悪くもない。私はこれをもう少し良いものと考える事にした。
そして、何が私のストレスになっているかについても考えた。多くの場合仕事が思う様に進まなかったり、周りの人間から思った通りの反応を得られなかったりすることがその原因だ。またそうした時、プライベートにおいて、幸いにもストレス源がない事にも私は気づいた。つまり、仕事が思う様に進まない状況に対処できれば、今の生活を積み重ねていく事で、いつか創作物が何かしら完成し、その技量も増していくという事が明らかになっていると気づいたのだ。それは「希望」と呼べるものにほかならなかった。即ち、これまでの総決算が「失敗」であろうと、最早なんの問題もないのである。しかし、現状は暫く変わらないと言うのも事実、真の勝者の背中は遠いが、焦ることなく少しずつでも前に進む事が、今の私に求められていると言えるだろう。
仕事と向き合わないと向き合う
私は読んでの通り社会生活が苦手だ。特に会社で働くのは得意ではないと感じる。現代の無能力者(独立して生計を立てるスキルが無いもの)としては、死にやすい性格であると言えよう。
しかしながら、働かないという訳にはいかない。現状は暫く変わらず、堅実に生きた分だけサラリーマンにはなっているのだから、稼いで、そのお金で生活をしなければならないのだ。
だが、これは難しい所なのだが、私は「人がどう生きるべきなのか?」という命題に関心を持つ個体だ。追い立てられていたり、その問題を忘れてでも仕事に打ち込むべき局面が来ても、どちらかと言うとその命題を持ち出して、仕事を放棄したがるところがある。どう見ても逃避なのだが私から言わせれば、仕方ない事である。
結局、私がどうするかというと、それはとてもシンプルだ。「仕事に向き合わないことで生じる苦言を引き受ける。」ということである。そして逆に、それを仕方ないと思えるのならば、せめて「フットワークは軽く、必要だと思ったことはやる。」という事にした。「仕事に取り組もうとしているが、思慮の浅いバカ」として映るよう振る舞うことを決めたのだ。これは意外と重要なことである。その理由は、自分に対する客観的評価の中に「思慮の浅いバカ」を入れたことにある。
ここで一つ区切りを挟み、最後の説明をしようと思う。
自尊心を支配する
私が人間をやってきて思ったこと、それは人は自尊心がとても強い生き物だということである。
有り体に言うと、生まれなど絶対的な環境の違いがあるのも事実だが、才能というものを生み出して、成功者を特別な区分に押し込み、比較しない事で同時に自らの本質的な問題とも向き合わない人が多いのだ。それは自尊心を守る為の行動である。
この時厄介なのは、誰もが納得のいく理由というものを用意出来ることだ。そのせいで、本当は負けた人の傷の舐め合いなのに、誰もそれに気づかないという事が起こるのである。
そうした事を繰り返すと、自らの意思で不満だらけの出勤を積み重ねているのに、いつの間にか失敗していないと思う人になる。もし仮に見かけ上、その人が謙虚に振舞っていたならば、厄介な偽謙虚人間の誕生だ。真の謙虚には向上心が伴っていないといけないのである。
そして、偽謙虚はその事を誇りに思い始め、密かに不満を溜め始める。そして結局、自尊心を傷つける真実に踏み込むと、手札に加える時に見えていたクソみたいな不満を切り札のように押し付けてくるのだ。
正直、そんな人間になりたくない。再三になるが、私はそのために自尊心や失敗、間違いの位置関係を整理整頓しておきたかったのである。
終わりに
また長くなってしまった。30が近くなる度に思う。人は長生きになったんだなあと。30年もあれば、いきなり傲慢かもしれないが、世界と自分自身の相関について、結構なことが分かると思うのだ。
(或いは一人の時間が長かった影響かもしれないが。)
しかし、それはおそらくプロローグなのだろう。そして、プロローグの終局にすらたどり着かない人も居て、まあそれはどちらでもいいのだが、人それぞれにとって重要な事だと私は考えている。
とりあえず決算は終了。「これまでは失敗」で責任者も「自分自身」である。
誰かに突然「お前の人生失敗だよな。」と不躾な事を言われても、「そうだと思う。」と静かに答えれるよう心がけたい。
それでは。