厨二病日記

取り敢えず患った不治の病が厨二病でよかった Twitterは @Pott0N_mush

意味は作れ

ネガポジ

世の中にはいろんな生き方があって、中でもサラリーマンと言うのは名を変え、人権を得た奴隷に過ぎないなと改めて思うこの頃。

 

忙殺という言葉はよくできた言葉で、まったくもって正しい。決算期も間近、人々はやらなければならない仕事に追い立てられて少々気が立っている様だ。私も例に漏れないが、そんなことを伝えたり、残したりするためスマホを手に取ったわけでもない。

 

示したいことがある。今度こそ簡潔にだ。というわけで前置きも短く、本題の話をしようと思う。

 

色んな習い事

昨今はライフスタイルの変容に合わせて様々な習い事が増えている。私の頃は読み書きそろばん、英会話の類か、スポーツや音楽かといったところで「何かできるようになる」という結果が具体的なものが多かった。

 

そんな時代を過ごした私が一番驚いたのは、YouTuberを目指す子供が増えた事により出来たであろう実況者の講座だ。今も事業として栄えているのか定かではないが、これに対する大人が冷ややかであろうことは想像に難くない。

ただ、事実はどうあれそういう姿勢、すなわちこの事業に冷ややかな目を向けるのが一般的になりうるならば、日本で言う大人が実に退屈な生き物であるということも、同時に真であるといえよう。

 

夢を見ているのは誰か?

大人は現実的であり同時に夢みがちでもある。彼らは我が子に何かをさせるとき、先述した習い事話の様に「実用性」を考える。目に見えて道具が使えるようになったり、社会人として最終的に活かせる体力などがついたりすることを望む。そしてそこに生産性があると評し「意味がある」とする。こればかりは九割方の意見と言っても過言ではないだろう。だから、子供がスポーツをやりたいと言えば「やらせてあげたい」と思うのが大人の親というものだ。

 

そうした視点で言うと、YouTuber講座というのは詐欺に近い思われても仕方ないことだろう。否、与える側は、与えるものがあると言うだろうし、個人的にとセオリーを踏襲していない動画を少し面白いものへと変える効果はありそうに感じている。無計画、無秩序な動画に比べて、何分までにどの話をするか、オチの手前に適切な間、若しくは勢いがあるかなど計算されている方が面白くなるのは明快で、その計算の重要性を子供にわかり易く伝えると言うならば、その講座には商品価値があると私は判断する。しかしながら、これらの効果は結果として見えにくい、或いは既に子供にチャンネル開設をさせている場合、登録者数が増えることによって確認する人が殆どだ。ただ、残念ながら全ての人が目に見える「成果」を得ることはない(効果は出ていてもだ)。だからこそ、こういった講座というのは詐欺のいわれを受けやすいと私は考えている。

 

つまり私は、お金をかけて子供に何かをさせる時、お金を稼ぐのが大変だから仕方ないのかもしれないが、「成果」という夢を見るのは大人の方だと言いたいのだ。そして、更に重要なのは子供には効果が与えられているという事でもある。(講座の実態を知らないので効果さえないものがある可能性は、都合無視する。)

 

この時、本当に、本当に大切なことは、大人が「意味が無かった」と言ってはいけないという事だ。

 

子供、と言うよりも人は楽をしたがり、無意味なものを捨てがちである。

この講座を受けさせたという状況。「話し方の工夫」という「成果」にこそ繋がりにくいが、実際は営業、プレゼン、あらゆる場で活躍する概念を学んだ可能性は高いはずだ。

 

そう言った小さな拾い物は「成果」に夢を見る自称現実的大人が「無意味」と吐き捨てることで本当に無意味になる。

 

私はそれが良くないと、現実的な大人に警告したかったのだ。

 

全ての経験は持っていれば役に立つものである。人生は長いのだから。

 

(この記事は子供側が真剣に取り組んでおり、講座をする側善人で、実績もある人が行っている前提となっています。)

最後に

括弧書きで重要なことを書いたが結局のところ本人次第だ。今回の記事では本人がやりたいと言ったことならば全力で課題に取り組むという前提で子供の吸収力、学習力を見積もっている。予習復習、自主的な応用実践当たり前くらいのレベルだ。

 

実際問題、楽して儲かってそうだから、という動機だと楽ではなかった時点でサボり始めたりするのが子供の厄介なところで、概念を教える講座が詐欺といわれをうけやすいのは、「実は本人が真剣な気持ちじゃなかった」という事も多くある。(加えて厄介なことに子供は真剣にやってると言う)

 

ただ、少なくとも起こりがちだと考えられる。大人の「成果」重視が過ぎた何も得られないようにしてしまう考え方は絶対に勿体ないのだ。

 

それを認識している人に、未来を担う子供達が育てられるよう。願うばかりである。

 

 

それでは。