厨二病日記

取り敢えず患った不治の病が厨二病でよかった Twitterは @Pott0N_mush

死に方について本気出して考えてみた

20190306

この頃よく、人が死ぬ。

 

ニュースを見て、誰かが死んだ話を聞かない日は少ない。だから、誰もそんなに考えないと思う。自分がどう死ぬかということを。

 

私は今、うだつの上がらないサラリーマン生活を送っている。何か面白いことはないか、と脱サラを目指して挑戦することもあるが、その試みが喜びを産んだことは無い。

 

何となくだが、大学や、今勤めている会社にも合格した時は喜んでいた気がするし、そういった物事が決まっていく手前では不安を感じていたりもしていた気がする。

そして今も、退屈な人生と言って差し支えない状況だが、日々襲いくるそれなりの不安と態々戦って生きている。と、思う。

 

そんな自分に舞い込んでくる死のニュース、特に、高齢者のワンミスによる死は私をとても悲しくさせている。

大学生だった頃から私のTwitterを見ていた人は意外に思うかもしれない。当時の私は、高齢者を邪魔に思っていたから。

 

合理的な人間で居続けてたならば、恐らくまだそういう主張をしていただろう。だが、理不尽の連続に疲弊する日々の中で、そういった姿勢は捨ててしまった。

 

高齢者のうっかり死において、何が一番悲しいかと言うと、高齢者が「今、私がしんどいと思うこと」を乗り越えた先に居るにも関わらず、それが簡単に死んだという点だ。

 

冷静になってみて欲しい、きっと貴方も自分の人生をつらいものだと思っているはずだ。否、少なくとも「お前の人生は楽でいいな。」と言われたら腹を立てる位のプライドがあるだろう。きっと現時点で振り返っただけでも「あれは二度と経験したくないな」や「あれをよく乗り越えたな」という経験がいくつかあって、今を生きている事実に、それなりの価値を生んでいるはずだ。

 

もし貴方が、そういうつらいことを乗りこえ、無事定年退職を遂げて、悠々自適に暮らしているところへ強盗が押しかけてきたらどう思うだろう?そして、その日、その時までの艱難辛苦を乗り越えた貴方の価値ある未来が奪われたら、どう思うだろうか?

 

死ぬ直前の記憶が「怖い」「痛い」「嫌だ」で人生を終えさせられたら、つらいことこのうえないと思う。

 

だから、最近思うのだ。たとえ空虚な一生だと感じる時間が長い人生を送っても、死ぬ直前は「ああ、頑張ったな」と余裕を持って感じていたいものだと。

 

というわけで、死ぬ時は老衰によって、何となく死の足音を理解しながら、出来れば別れを告げる余裕があるといい。

 

そんな風に考えたこの頃でした

 

さよなら〜