人生のロスタイム
導入
アラサーになると人生の可能性が閉じていくのを感じます。
人生の先輩方はさらにそうなのでしょうが、多くの場合は守るべき家族がその閉塞感を拭っているのだろうと考えています。
独り身は話が違います。
いつの間にか同い年のプロスポーツ選手が中堅になり、年下の芸能人などが仕事で誕生日を祝ってもらっているのを見ると、ただただ職場と自宅を行き来して、ときに地元をうろつき、とくに何も起こさず過ごす人生はいったいどういう意味があるのかと感じてしまうことがあります。
そのような疑問に苛まれ、小さな頃に思い描いた夢が叶わないと決まる時期に差し掛かり、憂鬱な月曜日を過ごすのは、自分が可能性をたくさん持っていた頃に「夢」と「自尊心」と「世間体」とのバランスを考える中で後ろ二つを優先したからです。
とはいえ、そこを悔いてもこの記事で書きたいことにはたどり着きません。
ここまでの文章から人生のロスタイムとは、おそらく「夢叶わなかった者が送る残りの人生」だと予想して頂いているかもしれませんが違います。
アラサーというのは夢が叶わなかった人生に対して、新たに生き方を模索する方法論を語る歳ではありません。
何せ「夢叶わなかった人生」の初心者か、もしくは本当に細い線が残っている歳だからです。
では人生のロスタイムとは何か?という話なのですが、これは少し重い話です。
もし同級生がこの記事を読んだら、かつて起きたことを利用していると怒るかもしれません。
しかし、私のブログ読者にかつての同級生はいなさそう(そもそも読者がほぼいない)なので、考えをまとめるために書き置くことにします。
なにより、新たな人生観を提示するこで、かつて起きたことが無駄ではないものになればと思います。
私の勝手ですが、それでは話を始めます。
台湾の夕焼け
人生で一度だけ、海外旅行に行ったことがあります。
高校の修学旅行です。
六月が近づくと、思い出すことがあります。
本当は、修学旅行が六月に予定されていたことです。
修学旅行は冬に延期され、私達は台湾で夕焼けを見ました。昼は汗ばむ程度に暖かかったことをよく覚えています。
あれからもう十年も経ちました。
27/17=1.58…即ち158%
なんの数値かわからないかと思いますが、ここで敢えて回りくどい話をします。
私の人生が運命決定論により89歳で終わるとしたら27/89、30.3%の人生を終えたことになるのはわかる話です。
ですが、もし同級生が亡くなって、その時点を私達同世代の人生100%としたら生き残った私達の人生はどう表現されるのでしょう。
それが158%です。余分な58%、同じ年の少しだけ違う時間に生まれた他の人よりも、長く生きた割合です。
邪悪な偶然だったのですが、かつて同級生が交通事故によって亡くなりました。
命日を忘れずにいるつもりでいましたが6/18か19だったかは、事故の日と亡くなった日の差で暫く誤認識していたため、悲しいかな定かではありません。
修学旅行へ出発する前日の朝にCDを買いに行く途中に起きたことでした。
私は生きていく中でときに、つらい思いをします。
それでも死なずに割と頑張るのですが、その労力は58%の余分に、余分な人生を加算するために使われています。
たまに、もういいのではないか?
或いは89歳で死ぬ場合の523%から158%を引いた残りの365%に及ぶオマケのうち何%が幸せだと感じる時間なのだろうか?
などと言った疑問が浮かびます。
しかし、そのような時こそ思い出すのは「台湾の夕焼け」です。
偶然が分けた高校の修学旅行に行けた人、行けなかった人の二つを感じることで、あの夕焼けを見てしまった以上は、100%生ききった中で見ることのない人がいるのだからと奮起するようにしています。
この事実を思い出す度、生きていなければ、苦楽はないと思い知らされるのです。
この項目で人生が100%を超過したものかもしれないという考え方を具体的に提示できました。
ここで一区切りを付け、次の項からは100%を超えた人生について深く考えていこうと思います。
超人生~Super life~
誰にでも人生がいつかを区切りに100%を超過している可能性があります。
同い年かもしくは自分より歳下の人が命を落とすことを知った時点から、超人生が始まっているのです。
少し想像しにくいかもしれませんが遠くで起きた事故や事件などでもです。
先の項では文章の展開上、余分や労力という言葉で100%以上の人生をネガティブに表現しましたが、超人生はそういうものではありません。
よく使われる名言に落とし込むと「あなたが空しく生きた『今日』は、昨日死んでいったものが、あれほど生きたいと願った明日」のようなもので、生に対して肯定的な人生観が超人生です。
私も先述の名言を知った時は「それでも苦しみから解放されないから死にたい人は死ぬよ」などと考えました。
しかし、自分の人生が超人生に移行したことを認識した瞬間、そもそも苦楽は生と共にある(特に死と共にはない)ことに気づいたのです。
先の項でも述べましたが、私が超人生を生きていることに気づくきっかけは身近でした。
それ自体は悲しいできごとでしたが、お陰で私は苦に対して柔軟な対応ができるようになったと考えています。
苦も楽と同様に貴重であると考えられるからです。
しかし、たくさんある人生のなかには私も経験したことのないような絶望的状況に置かれる人がいます。
いじめやブラック企業、村八分など社会や人間が関わることです。
学校に行かなければならない、会社に行かなければならないなどの暗黙の制約を受けて悪質な環境から逃れられない、人生を生きていればそういうことも起こりえます。
このようなことを超人生ではどう受け止めるのか、そこを考える必要があると言えるでしょう。
超人生では基本的に上記の絶望的状況において逃げてでも生き残る立場を取ります。
例えば電通で女性社員が過労死した問題がありましたが、調べてみると「辞めたらいいのでは?」と思った人は多かったようです。
しかし、人生では不可能です。掻い摘んで関連記事を読むとどうやら専門家もそう言っています。
そこで人生観をすり替えるのです。
超人生を用いると結論は辞めるなのですが、その詳細な理屈を説明したいと思います。
まず超人生には生存が前提にあります。
超人生は同じ時期に生まれた人の死を認識し、人生の100%をその時点に規定することで、それ以降は余分の人生を加算しているのだという観念です。
超人生の立場に立つと余分の人生は、死によって経験不可能になるものとわかります。故に死は第一に怖く、生はありがたいのです。
先に紹介した名言の通りになりますが、余分の人生ほど大切にする考え方なのです。
生にこだわると仕事を辞められずに死ぬなどということはありません。
よって、辞めて生き延びるなのです。
しかし、詳細にと言うには簡潔に収まり過ぎています。
理由は簡単で、生き延びたところで苦しい可能性を考慮していないからです。
残念ながら超人生は面倒見のいい人生観ではありません。
就職は戦争と茶化され、それに勝って入社し、獲得した自信、自尊心を辞職によって失うことは死よりも重い苦しみになったかもしれません。
しかし、生きて感じる苦しみはどれほど重くとも余分の人生によって中和出来るのです。
酸が急激に入ってpHが下がったなら、ゆっくりアルカリを入れれば良いのです。
後半に沢山点を取られリードされても、ロスタイムに逆転すれば良いのです。
超人生は加算で考えるからこそ生きている間の絶望に強い理論だと言えるでしょう。
ふと、自分が大学院生だった頃を思い出しました。
同級生の殆どからブラックラボと呼ばれる研究室で、先行研究の再現が半年以上取れなかった頃のことです。
なにも得られない毎日で、それでも朝から晩まで研究室にこもり実験をしていました。(今思うと、ただこなしていただけとわかるのですが…)
教授は「考えろ」の一言で、研究の右も左も分からない当時の自分としては頑張ってなお報われないことだけをもどかしく感じていました。
それまで好きだったゲームを殆どしなくなり、漸く前進した頃には修論、恥ずかしい話、先延ばしにした就活は上手くいかず修士卒派遣(今は正社員です)となりました。
修論発表は当然ボロボロで、こちらとしては頑張ったにもかかわらず、教授は「こいつを修了させるべきではない」と言ったそうです。
それでも生きた結果、今があります。
今思うと当時の自分は確かに修了にたらなかったかもしれません。
研究者として結果から考えるということができていなかったこともわかります。
皮肉にも、それを教えてくれたのは派遣で転がり込んだ大手の研究室でした。
閑話休題、私が言いたいのは生きていると新たな発見が続き、心の100%に絶望が覆いかぶさるのは一時のことであるということです。
心が死に近づく時、その全てを克する人生観が超人生です。
とりあえず生きる、生きてから考えるということなのです。
総括
超人生について、改めて短文でまとめます。
自分と同じ時期に生まれた人の死を認識し、その時点を人生の100%と規定することで、以降の人生を100%を越えた余分の人生の加算として捉える考え方が超人生です。
具体的な説明は前述の通りですが、精神的な耐久力の増強に役立ちます。
苦境に対し、とりあえず生き延びてから、加算する人生を良くすることで中和するという立場を取るためです。
超人生は苦しみから逃れられる便利な理論ではありません。苦しみから逃れることに関しては4月も初頭の記事で述べた「万象些事の心得」の方が優れています。
…さて、いかがでしたでしょうか?
今回はかなり長くなってしまったのでここまで読んでいる方がいらっしゃるのか不安です。
余談ですが、記憶はコントロールしにくいので難しいとはいえ、死者を忘れずにいるのは未練を生じさせ成仏の妨げになることもあるそうです。
普段は適切に忘れ、しかるべき時に思い出す。
それが最も良いようです。
死者を大事に思うことは、ずっと忘れないという単純なことだけではないかもしれません。
それでは、この辺りで筆を置くとしましょう。
楽しいロスタイムを!