厨二病日記

取り敢えず患った不治の病が厨二病でよかった Twitterは @Pott0N_mush

宝くじを当てる人

はじめに

年末が近づいて来ましたね。

 

年末と言えば年末ジャンボです。今年も多くの人が大量に発行される紙に書かれた数字の組み合わせを見て一喜一憂することでしょう。

 

ところで私は最近パラドックスの解説動画を見ることにハマっています。少々唐突なのですが、これは無関係な話ではありません。それというのも今回は宝くじのことを考えながらパラドックスの動画を見ていた時に、ちょっとした思いつきがあったのでブログに書いておこうと、これをしたためているからです。

 

それでは早速話を始めましょう。

 

価値の思考実験

宝くじを買う人は多い。お金が増える確率で言えば競馬や株の方が高いと言われているのにもかかわらずです。それはおそらく勉強の必要がないからでしょう。

そう、宝くじを当てたければ、宝くじを買えばよいのです。とても楽ですよね。300円集める技術が無い以外、買えないという事は有り得ません。

 

少し遠回りをしましょう。皆さんは売れっ子アーティストと話せる権利か路上ライブをしているシケたツラのアーティスト気取りと話せる権利のどちらがお金を払ってでも欲しいですか?

答えは恐らく前者だと思います。何せ後者とは金をかけずとも話せる確率が高いですからね。最早、これは合理的な正解とも言えましょう。

そしてそれはつまり「前者と話すこと」それだけに付加価値を付けたということにもなります。もっと分かりやすく言うと「前者は後者よりも価値があると判断した」という事です。別に悪い訳ではありません。芸能人のトークライブなんていくらでもありますから。

ただ、このことから人間には機会や発言権、その他もろもろの自由を担保する平等と同時に(この一文を入れないと差別主義者討伐隊にシバかれるため。)その人の努力や判断、そして経験が成す「その人自身の価値」の存在が明らかとなるわけです。

 

さて、人間には価値があると明らかになったところで、そろそろ私が行った思考実験を紹介します。

思考実験!

「互いに同い年の、宝くじを当てて6億を手に入れただけの人と、6億円(45年間1333万円稼ぎ続けないといけない)を稼いだ人の語るあらゆる経験談の価値は同じか?同じでは無いならその理由は何か?※後者が6億を稼ぎ終えた時点で講演会を開くものとする。」

私は上記を思考実験における問い掛け部分にしました。何分哲学動画に最近ハマっただけの事なのでこれでいいのか分かりませんが、何となく価値は同じと答えるには問題がある様に感じますよね?

解答!

そしてこれに対する私の最初の見解は以下のようになりました。

「生きた時間と手にした成果が同じ人間の話であるため、その体験談の価値は等しい。」

明らかに直感に反する答えだと思いますが、勿論理由がありますので、それを記していこうと思います。

理由!

資本主義を採用する日本における一般的な実力の評価方法が、いくら稼いだか?になる(具体例:アーティストは稼いだ人の方が偉いとされる等。)ため。同じ時間で同じ金額を手にしている場合。実力は同じです。当然、実力の同じ人がする話は同じ価値を持つので、その話には同じ価値しかありません。

反論!

正直、最初の見解は嘘です。

いや、嘘と言うにはそれもまた少し違うのですが、誰であってもいくつかの直感的な反論が浮かびますよね?

例えば前者が6億を手にした瞬間にアーリーリタイアして、毎日適当に遊んで暮らし、なんの技術を身につけずに、取り敢えず財力任せで次の世代に繋いだだけの人物だとしたら、正直話を聞いても役に立つ事はなさそうです。

逆に後者の年収1333万×45年ですが、これはかなりの稼ぎです。サラリーマンのスタートが400万前後だとすると、何処かで5000万稼ぐとか、後半はずっと3000万超えの様な、類まれなる才能が成す年収を叩き出さないといけません。目の当たりにしたら息を飲むような技術を持っているか魅力的な経験談を持っている可能性が高く、興味のあるジャンルで活躍する人であればお金を払ってでも会いに行きたくなるでしょう。

上述の例から考えるに、やはり最初の見解は誤りの可能性が高いです。ただ私はそれを全くの間違いだとも思ってはいません。どうしてそう考えるのか?そして思考実験を経て何が理解出来たのか、最後にそれらを紹介したいと思います。

解説?

最初の見解を読んだ時、多くの人が誤りだと感じるのは、おそらく同じ時間で同じ金額を稼いだ人のことを同じ実力と述べた部分でしょう。

実は、私はこれに関して言えば、依然として正しいと考えています。そもそもこの実験を始めた時、頭の中で重要だと感じていたのは「運」「能力」「実力」の関係性を、自身の中ではハッキリさせておくことでした。

そのため、私は「実力」=「運」⊂「能力」という答えを用意し、これを裏切らないことにしました。

すると、「宝くじで6億円を当てた人」というのは「宝くじを買って6億円に当選する能力を持つ人」と言い換えられます。これは「簡単に真似することの出来ない能力を持つ人」とも捉えることが可能です。そして「簡単に真似することの出来ない能力を持つ人」には「年収1333万以上を稼ぐ技術を持つ人」も含まれます。つまり、両者が同じ集合の中に居ると考えられるという事です。

これにより「宝くじで6億に当選する技術の無い人間」と「年収1333万円以上稼ぐ技術を持つ人」の実力は同じであると言えます。

あくまでこれは個人的な了見であり、実力=運⊂能力が正の時の話ではありますが、最初の見解がそれっぽいのは、論理に則っているためと言えましょう。

 

そして、この思考実験から私が理解出来たことですが、それは「資本的な実力が等しい人の、第三者から見た価値は必ずしも等しい訳では無い。」という事です。

 

何を当たり前の事を…そう思う方も居るかもしれません。しかしながら、重要なのは当たり前と思っている事の理由を人は態々考えないという事です。そして何より、それを考える事で当たり前だと感じているいくつかの事柄に対して自らが取る立場を明確にすることができ、尚且つ関連するいくつかの言葉に対しても掘り下げることが可能な事が大切なのです。

例えば「能力」と「成果」が必ずしも比例することは無く、そこに「運」が絡む事は、誰でも知っている筈なのですが、「成果」から「実力」が低いと判断された時、怒りから人を傷つけるなど誤った反応をしてしまう事があります。

しかし、価値観の掘り下げが進んでおり、自分が確立している人は、「運」が悪く、「成果」が相手に伝わらなかったこと、それを即座に解決できる「能力」が無いことに気づき、落ち着いて対処ができる様になるのです。

 

また、この問題から、自分が人間自身に付く価値を資本的な価値のある物を持っている量で測らず、経験や技術に見出している事や、或いはそもそも人間に価値を付けているという事を見つけることが出来ます。そして、それは正しいことなのか?改めて思考実験を組み立て、重ねていく事でどんどん自己というモノをハッキリさせていけるのです。

それは間違いなく有意義なことです。

確かに金銭が生じ、空腹が満たされる訳ではありません。それでも、私が思考実験をする意義はこういった気づき、再発見が可能だということにあると思います。残念ながら私は哲学という大事なものよりも目先の食う寝るのために他の学問を優先したため偉そうなことは言えないのですが、この記事を読む皆さんにも改めてその領域を理解する必要性が伝わる事を願いながら、ここまでとしたいと思います。

 

それでは