厨二病日記

取り敢えず患った不治の病が厨二病でよかった Twitterは @Pott0N_mush

傘を盗む人~同じ罪、違う背景~

はじめに

傘を盗む奴は最低だ。単純に犯罪者だ。

傘を盗む輩がどうして自らの過ちを認められず、雨に濡れることが出来ないのか、その倫理観には疑念が絶えない。

 

私に言わせてもらうと、傘を盗む人間は特殊な人間だ。そもそも盗むという行為に何も感じない人間は普通(それは私が批難してるものではなく、これを下回ることが不味いという枠組み)ではない。人生の中で一度も意図してすべきではない行為で、過失がある場合(返し忘れ等)も、気づいたら懺悔を重ねるべきものだろう。

 

盗み、果ては殺人。そういった罪は人生においてめったないものであるべきだし、そうできる時代は、既に来ているはずだ。人々は間違った方向に特別な人生を歩む必要などもうない。

 

人よ軽い気で傘を盗むな。

 

罪の本質と、別の要素

ただ、今回一番の議題は盗まれた側にある。

 

いや、何もこうまで言っておいて盗まれた方も悪いなどと言うエキセントリックな論理展開をするつもりは無い。安心して欲しい。

 

まず、傘の盗難には「誰かによって傘を盗まれ、その優秀さをもって未然に防げたはずの雨に濡れる」という普遍性がある。これは罪の本質、どんな傘が盗まれても変わらない部分だ。

だが、この罪は一つの要素を加味することで、変幻自在の様相を呈する。

 

それは、傘の価値だ。

 

例えば、貴方がどこかで傘を盗まれたとする。駐車場までは遠い、気分も悪くなるだろう。

その時、盗まれた傘がビニール傘であれば、どうだろうか?

犯人に腹を立て、裁きたい気持ちは変わらないだろうが、「まあ、ビニール傘だから、コンビニによるなり、もう家に帰るなりするか。」位の気持ちにもなる筈だ。そして、数日後には忘れてしまうだろう。

しかし、高級な傘だとどうだろう?場合によっては犯人を探し出し(控えめに言って)ぶん殴ってやりたい気持ちにならないだろうか?思い入れが強い物を奪われることは、それに関する記憶まで破壊されたようで、とても切ない。

 

けれどもこれは、何も不思議でない気がして、不思議な要素を持っている。

それは、犯人が傘の価値を知らない場合、犯した罪は「殆ど同じ」というものだ。

先に傘泥棒の罪の本質を語ったが、起きていることは殆どそれだけなのである。

 

言いたいことは一つ、受け手によって罪は、否、罪に対する憤りは大小の変化を伴うという事。これを理解して欲しい。

 

失ったのが傘でなく

人の命だとどうだろう?

 

無論沢山の人が、一人の悪意によって失われてしまうこと、それはあってはならないことだ。

昨今、否、昔からだろうか、そういったニュースは定期的に入ってくる。時代が進んだこともあるのか、そこそこ頻繁にだ。

 

秋葉原無差別殺傷事件、相模原障害者施設殺傷事件など、犯人の倫理感、道徳心を疑う狂気の事件はいずれも、受け手の私にやるせない怒りを生じさせてきた。

 

だが、失礼ながらとあえて言おうか、私がこれを記そうと思ったきっかけでもある事件が起きた。上記二件「よりも遥かに」憤りを感じる事件が起きたのだ。

 

それが京都アニメーション放火事件である。

 

本件は平成以降最大の死亡者数を出した事件なので「よりも遥かに」を数で語ってしまうこともままあることだろうが、私がそう言うには少々懺悔すべき、かつ私の価値観においてはそうしたいと思う意味がある。

 

それは傘の話で言うと、「盗まれた傘の価値」に関わる部分だ。

要するに、私はこの件に関して失われた物の価値が高いと考えているのだ。

勝手な想像ではあるのだが、京都アニメーションというと業界内でも指折りの企業で、ブラック業界と外野から言われがちなアニメ業界でもホワイト待遇が囁かれる(あくまでお囃子、実際は知らないが。)ような(およそ)真っ当な企業と考えられる。

それはアニメ業界での活躍を志したり、アニメに関わって正当な報酬とやりがいを得たいという人が他者と競争して入社するような企業であるということだ。

実態についての知見がないため(また、自らの主張を強調するため)、実態にガッカリして無気力な人もいるということが無いとして語るが、こうした状況から意欲的に仕事へと取り組む「正しい人」が大勢所属していたと考えられよう。

また、私は(これも素人感覚だが)芸術分野において活躍する人をAIに置き換えることは難しい、つまり「代理可能性」、かけがえのなさで言うと、それが高い人だとも考えている。

 

まとめると、目標意識を持って他者と競走することを選んで勝利し、日々意欲的に業務に取り組み、かけがえのない価値を提供する力ある人達。私は今回失われた人たちをそう考えているのだ。(悔しい限りであるが、私はこの逆のような労働をしているし、この主張を強めれば強めるほど自らの生きる価値は低いと言うに等しいと認識している。それでもする。)

 

しかしこれはやはり望ましいことではない、「命の値踏み」をしてしまったことになる。特にフォロワーさんから指摘も受けたが、この主張が加速すると「相模原障害者施設殺傷事件」を是としかねない所がある。

 

ただ、傘泥棒の話に戻って欲しい。

 

本質さえ抑えておけば同じ発想には至らないとわかるはずだ。傘は本当に安いものだと安いので、そのまま人命に応用すると適さない受け手の表現にもなっているが、怒りは等しく在り、罪も同様だとそこは分別をつけている。

 

それでも私が価値を語ってしまうのは、そういった価値の感性に欠けば自己実現へ向かう力は弱くなると考えるからだ。自らの価値を高めるという考え方があるが、それはまさに値踏みであろう。

無論公平性も、何も悪い人間ではないので、併せ持ちたいところではあるのだが、これは如何ともし難いジレンマである。

 

結局のところ、このような事件が二度と起きないことが幸いで、およそ一番間違いのないことなのだろう。

 

終わりに

さて、思わぬタイミングでこのような話をしたが、これは私の価値観や哲学的立場はまとめおかねばならないと考えてのことだ。

 

インターネットの片隅、歯車労働に身をやつし、そこにやりがいを見出さなければならない社会的立場にある一人の意見に過ぎない。

 

不快に感じた人もあろうから、そこは申し訳なく思う。

 

取り敢えず、今回はここまでにしたい。

 

それでは