厨二病日記

取り敢えず患った不治の病が厨二病でよかった Twitterは @Pott0N_mush

【日々の徒然】高学歴ニートVS古舘さんを観て

4/14(日)のできごと

ダメだな。そう感じた。

 

確かに、苦労をした人は偉い。私も修士課程を出る時は発狂する程の状況に追い込まれたものだ。無論、その後も社会の要求に心を折ってみて、馴染ませてみてをしてきた。だから何となくわかる。

厳しい経験を乗り越えれば乗り越えるほど、自分が届く範囲、限界を正しく理解できるのだ。

 

この理解をゲームに例えると、(いや、ゲームに例えると説得力が減るかもしれないが)クマに殴られても、HPがゼロにならず、やくそうでプラマイプラスに回復すると分かっているから、いとも簡単に主人公をクマに仕向けることが出来るような話だ。

つまり、「限界理解」があると、例の通りクマの様な危険とも戦えると分かって、戦える。社会の話に戻すと、大きな仕事という未知にも立ち向かっていけるという事になる。

よって、「限界理解」に近づくための苦労に臨める人は偉いのだ。

 

だからこそ、経験より先の知識を重んじ「論理的整合」を軸に据えて、ニートをしている人間に「苦労の価値話」は100%響かない。哲学的立場がまるで違う。そんなこと最初から明らかな話だった。

 

実は私も学士三年まではニートのロジックを持っていた。できるだけ力を使わずに稼げたら最強だと思っていて、「駐車場管理」「マンション管理」で儲けるのが理想だと考えていた。

その根性は学士最終年、修士二年、社会人で二年位をかけて矯正していったが、ニートのロジックは、敢えて私の中に残している。否、学士最終年の頃、「きっかけ」の力で自分を誤魔化して体裁上の社会人を演じ続けているが、私の本質として残っていると言った方が正しい。

 

しかし、いくつかの経験を通して私は、以前(直前)の記事に記した通りに、ストレス社会を是正不可と解して対策を構築した。さらに、これまで言ってきたように、そのストレスと立ち向かう最後の武器は「やりたい」なんだと気づいてきた。

(加えて、今の仕事がキツイのは肉体でも人間関係でもなく「それ」がないからと言っている)

本意と違うことに馴染みながら、本質を誤魔化しながら、仕事に取り組む。私は、時間をかけてそういう人間となったのだ。

 

だから、わかってしまった。

 

古舘さんのようにテレビの中で成功した人のスタートは必ず倍率の高い試験で、それ以降に「やりたい」でしがみつく意志が生じやすいものだということをだ。

 

だから、意味が無い。彼は素晴らしいと信じられることをして、お金を貰っているのだから、どんな叱責も不安も、申し訳ないが乗り越えられて当たり前だ。そういう人には帰るところがある。それは初心、「やりたい」と思った事実だ。

そんな人が「厳しい経験をした方がいい。」なんて言ったところで響かないのは当たり前で、それをテレビショウにして観せるのは、なんと言おうか、一言にすると品のない話だった。

 

 

人は不正(ただしくない)と言われるのを嫌う。おそらくこれに出演した高学歴ニートの方々にも信じる正義があることだろう。それに、彼らは社会に貢献していないのかもしれないが病気ではない。犯罪に加担していなければ、悪党と言うにも曖昧な立場だ。つまり彼らを悪にすれば、それは誤りである。

だから、私はこの番組の悪いところを、構図だと考えた。スタジオは一貫して古舘さんを正しいとし、ニートを不正としていたのだが、それは明確な間違いなのだ。(それくらい分かってやってそうなのがテレビ制作の嫌なところでもある)それでも、受け手の一部はこれを真に受けてしまうだろう。私はそれが残念でならないと思っている。ニートは生き方の一つだ。それに何故「治療」が施そうとするのか、余りに滑稽で愚かな話だった。

 

私は「社会的成功」と「普遍的な命題」を分けて考える哲学的立場にある。

だから「生き方」という、正しい答えのない「普遍的な命題」の中でニートを選びとったであろう高学歴ニートと、ただの「社会的成功者」を相対させることは、ナンセンスながらも興味深いと思っていた。

だから、番組を観てみたのだが、まあ、終始期待通りの期待はずれで「そう編集して試合終了だよな」という出来だった。一言でいうと面白くなかった。(※個人の感想です)

 

 

色々言ってきたが、勿論、古舘さんは悪くない。テレビショウ特有のわかりやすい構図作りに組み込まれただけで、おそらくニートの正義も理解してるはずだろうから。

 

しかし、日曜日の夜になんとも微妙な番組だったなあ。まあいいや、

 

もう寝ます。既に月曜日だしね。