厨二病日記

取り敢えず患った不治の病が厨二病でよかった Twitterは @Pott0N_mush

34歳が近づいてくる

はじめに

のそのそと人生を歩いていたら、いつの間にか歳をとっていた。34歳までもう少し時間はあるが、そんなに遠い未来でもなくなった。

 

もう少しだけ、34歳がどういう意味のある年齢かは勿体ぶって、先に後悔の話をしよう。

 

その人生に成功経験はあるか

私の人生に足りていないと思うもの、それは成功経験に違いない。

 

ほとんどの人が得る最初の成功経験と言えば高校受験のように思える。そこで私は第一志望の公立校に落ち私立へ行った。当時は何も感じていなかった。何も努力していなかったからだ。大学も行けそうなところへ行っただけだ。合格は喜びというより安堵。学部が関する学問についても大して興味がなかった。

もう少し遡ると、私は書道を習っていて課題を同級生に褒めて貰ったことがあった。けれども、賞は他の人がとった。足も生まれつきレベルでは速い方で若干のプライドを持っていたが、結局鍛える事もなく、なんの成果にも繋がらなかった。私の小さい頃というのは、なんとも不努力であった。

 

無論、完璧を望みすぎても良くない事はもう充分承知しているし、寧ろそれが出来ていなければ、余りに不完全で死んでしまいかねない人生送っている。クヨクヨしてたらやってられない状況には、とっくになってしまっている。こうして生きている事自体、理解の証明と言えよう。

 

それに人生は長い、これから少しでもやりたい事に手を出しながら、何かを生み出してはインターネットの片隅に置きながら、生きれば良い。

 

今はそう思っている。

 

34歳って?

34歳とは、享年の事だ。

 

そしてそれは、人が生まれ、志を持って生きれば、夢を叶え、幸せな家庭を育む事のできる。年月とも言える。

34歳とは、アナウンサーの小林麻央さんが亡くなった歳のことだ。

 

別段ファンだったという訳ではなかったが、その死は結構衝撃的だった。それというのも当時、私は先述の事実に気づき、一念発起して全力で夢を追いかけていた頃だったからだ。

真剣に生きて初めて理解できる事は大変多く、特に夢を追いかけている身にとって、自己実現できるかどうか、その凄さ、偉大さは大きく見えていた。

 

小林麻央さんは、当然関わりのない私にはあずかり知らぬ苦労こそあったであろうが、当時より自己実現を成し遂げ成功しているように映っていた。これも私の悪い所ではあるが、人生をレースに例えると何周もずっと先を走る。或いは走る事を許されている。立派でかつ幸運な人だった。

そう、幸運な人だった。

 

結果、と表現するのは不謹慎に思う人もいるかもしれないが、女子アナウンサーになるという狭き門を見事にくぐり抜け、見事に自己実現をし、幸せな家庭を築いている様に見えていた人は、34歳という若さで亡くなってしまった。

その事実は、まだ頑張ってもない、否、これから頑張ろうとしていた当時20代後半も後半の自分からしたら物凄い衝撃だった。

当人が病床に伏してからも発信を続けた事、その影響力を見た事も自分の考え方をより確りと見直そうというきっかけになった。

 

小林麻央さんが生きた時間は、現代日本の平均から見て、とても短かったと思う。しかしながら、その生き方が沢山の人に影響を与えた事は間違いなく。今自分はその人の享年に近づいている。

 

自分は今幸せだろうか?そも、何を目標に生きた?達成出来なかった事はどう補う?幸福観自体を見直さないと不幸になるかもしれないぞ?次は何に挑む?

 

一息ついて、一生が34歳迄という観点で考えてみる。

 

だからといって不要に人生を急く必要など無いのだろうけれども、それに興じるというのも贅沢な時間の使い方かもしれない。

 

思うこと、一つ

(更新を随分していなかったことは棚に上げつつ。)

そして私は今、ブログを書いている。

それは考えを見直したからであるかもしれない。

 

その訃報を受け、色々と思いをめぐらせた結果、他人に影響を与えられれば優れていると言うのは浅いかもしれないが、まだ若い事もあり、生きて、誰かに伝わるものを残したいとより強く思うようになった。

 

昔の人は、それこそこういったことをまとめる暇もなかったり、或いは書にしても紙が破れたり燃えたりして、今にまで残らずに消えてしまったかもしれなくて、そういう命も沢山あるはずだ。

インターネットも人が滅びればではあるが、インターネットタトゥーという言葉の裏を返せば、随分と残るはず。

 

だから少しくらい、発信者を気取って文章を書いてもいいだろう。折角、生きているのだから。

 

多分。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

忘れちまったな…スマホをよ

はじめに

スマホを忘れて出社しました。なんということでしょう。

 

現代社会において必須アイテムとされているスマートフォン、略してスマホ。何故スマフォじゃないのかはさておいても、持ち歩き忘れてしまうと大変です。特に私のようなネット依存症の人間にとっては尚更。

 

とはいえ職場で発狂すること無く、無事にこうして帰宅しスマホでブログを書いている今、一日を通して気づいたことがあります。

それは当たり前のことなんですけど、忘れてたりするかもしれないから、日記に書きおこうと思います。

 

変容する生き方、広がる視野

スマホを忘れるとスマホをいじることが出来ません。最近流行りのとある有名人構文を使いましたがこれは本当にそうです。

 

私は自認せざるを得ないほどのネット依存症です。

(スマホなしに一日働いた時点でそれは無いと言いかねない深淵もこの世にはありそうですが。)

なので、スマホを持ち歩いている場合、何の気なしにスマホを見る時間で2、3分消費します。これは労働者として十分に非効率的な行為で、実際今日私は仕事だけすることになって、無駄を省く事はできたと思います。

また夜更かしも多いため、休憩時間に寝ることもできました。

 

一見して良いことづくめに思えますが、やはり。その実は違うと私は思います。

 

その第一の理由は、仕事の効率が上がるからです。

意外に思うかもしれませんので、より詳しく説明します。

 

私の職場には40代後半独身の先輩が3人います。私自身は入社時から人事異動に合っていないため、彼等のうちリーダー以外は同じ平社員です。(リーダーも寡黙なタイプでコミュニケーション能力が高いとは言えません。)しかし彼らはそれなりに熱心に働きますし、仕事中にスマホを弄っていると注意する事もあります。つまり、効率的に仕事だけを頑張っているはずなのです。ただ、仕事量との相対関係が分からないためなんとも言えませんが、彼らの残業は非常に多く、これ以上出世しそうもなく見えています。

休憩時間の彼らを観察すると、テーブル席ではなく端にあるカウンターテーブルに座ってぼうっと外を眺めています。無論、スマホをいじる素振りなど無く、次にどの仕事をどう終わらせるのか考えているのでしょう。

 

正直ああはなりたくないと思ってしまいます。一見して彼らは熱心に働いていますが、その実仕事しかやることが無いのです。

 

スマホを忘れ、会社内で仕事しかすることが無い中気づきました。会社内には仕事しかすることが無いのです。(有名人構文再び)

昔はスマホなど無いため、尚更それに染まりやすかった事でしょう。そして面倒だからと結婚せず。十と数年を過した人間には今更スマホでサボるなど出来ないのです。

そして、本来それ程仕事に関心があるわけでも、ましてや仕事好きって胸張って言いながら毎日会社に来るでもなく、いやいややっているとまで零しながら与えられた仕事をこなすだけこなして、それでも仕事をしていること一点誇りに持って生きているのです。

 

そこに尊敬できる人物像は浮かびましたか?そもそも、退職する時が来たらどうするのでしょう?

 

スマートフォン、その便利な存在は人の生き方を変えようとしています。否、細かいところを少しづつ変えていっています。かつては会社という閉鎖空間に押し込んで、仕事漬けにすれば良かっただけの資本主義勝者達も、考えなくてはならない日が来たのです。

今やもう奴隷にしてきた人々は、少しでも楽しそうな隣の芝を簡単に覗き込むことができるのですから。

 

サボりは良くない、されど個の時代

さて、まるでスマホを見てサボるのを良しと書いてきましたがサボりは普通に良くないです。加えて言うとスマホいじりなんてのは決して高尚な趣味とは言えず。無趣味おじさんにマウントを取りまくれるようなものではありません。

 

私が言いたいのは終身雇用時代の本格的な終焉が近づいていると言うことと、それはそう言った古い価値観の会社に在りながら、新しい価値観で仕事に取り組んでいる人達を簡単に見つけられるスマートフォンSNSの存在によって加速しているという事です。

 

その辺は誤解なきようお願いしたいですね。

 

終わりに

ああ、愛しきスマートフォン。置いていってしまってゴメンね?遅刻ギリギリに起きて、ボサっと動画見た挙句、そのまま置いて家を出たと思ったらイヤホンマイクだけ取りに戻って…。

 

本当にとんだマヌケをかましたし今日はなんかずっと頭が痛かったよ。

 

はー。明日から仕事頑張ろうな。君はサボりの道具だけど。

 

ね。

 

久々に書く気が起きた

驚き

久しぶりにアクセス解析を見た。特に意味もなく。なんとはなしに見てみたのだけれども、結果を言うと、ちょっと読まれてた。

 

ブログを書いてる時というのは大体熱に浮かされてる状態なので、見返すと恥ずかしいと思う反面、やはり嬉しいと言う気持ちが勝つ。

 

どうせ一時の事なのだろうけど、もしかしたらツボにハマった人も居るかもしれない。そう思うと書かないのも勿体ない。そう感じたので前回の記事以降から今日までぼんやり考えた事をまた落とそうと思う。

 

肉マネーが失効していたよ

前回の記事から今回までの間に、とても悲しいことが起きました。それは、いきなりステーキの肉マネーが失効していたことです。

肉マネーはポイント等ではなくプリペイドサービスなので、お金はドブに消えたようなものですが、そうであるからこそ問い合わせれば取り返すことも可能かも知れません。損失はおよそ8千円程度で、私にそれを取り返そうという意思は生じませんでした。

 

本当に悲しいことではありました。

ただ、いきなりステーキの経営が傾いて最寄りのイオンと比較的近い場所の二店舗を撤退させたこと、コロナ禍や個人的な習い事の終わりも相まり名古屋駅前にも行かなくなったことが噛み合って自分としても相当足は遠のいており、プリペイドサービスに課金したのも殆ど忘れていたので、お金を取り返したいとは本当に思っていなかったのです。

 

なので、いきなりステーキの事は悪く思わないであげてください。

 

では、なんでそんな話を?

さて、ただの悲しいことレポートなら日記で十分と言ったところでしょう。勿論それだけでは終わりません。そうは言ってもこれが日記である事に変わりはなかったりしますが。

 

実はこの事で親と言い合いになったから書いているんです。賢明な人間であれば言い合うまでもないと理解出来る筈なので、以下に理由を説明します。

 

私が肉マネーの失効を知った時、私は先の判断を即座にしました。もうお金は絶対に取り返さないのです。その為に私が何かしらの手続きをする必要があるならば、その為にすり減る仕事後のメンタル、そして単純にかかる時間は物凄く無駄で、何より8千円に比べ限りなく高い価値を持つ自由をそんな事に使うのは極めてナンセンスだと、一瞬で理解したのです。

この時点で、地上に誰一人として、お金を取り返せというしょうもない事を言う権利のある人は居なくなりました。

否、少なくとも、人の心を理解しようと努力し、洞察力を鍛えた者であれば、仮に自分の価値観でお金を取り返すべきだと感じても、人と人との調和を最優先に考えて主張を控えるよう振る舞うはずなので、そう言える賢明な人間はいなくなったのです。

 

悲しい事に私の親はそれをできませんでした。賢明な人間ではないのです。これは昔からの事で、昨日も変わりませんでした。正直に言うと私は毎日ショックを受けています。客観的に見て高い成果を得られなかった親が、最近は内省的になる時間こそ取るようになったものの、未だ自己を理解せず何も変えられないことに愕然とし続けています。

 

少し話がそれて親の愚痴になってしまいましたが、私はこうして生まれる時間の無駄が嫌いです。

何かのコピペに出てくる優秀なビジネスマンも、商談相手の服の着方に誤りがあったとて、商談に関係の無いスーツの着方について言及しないように、誤っていると感じる部分が相手にあっても、その空間全体で必要のない指摘はしないのです。

 

もっと無駄を省き、楽しい会話をしましょう。私もこういうある種退屈なことはここに書き留めて捨てているわけなのですから。

 

通じない話は、しない。

これが私の言いたいことです。相手に自由を主張されたらば、せめて伝えるまでにしましょう。

 

相手を貴方の傲慢で縛ることはできないのですから。

 

以上が絶対に終わらない説得ばかり人に繰り返して、何一つ関係性を前に進められない人間を見てきた者からのメッセージです。

 

職場じゃないとこでくらいは楽しく過ごせるよう努めようね。ほな。

 

 

 

論理学が魅力的だと感じたけどどう足掻いても論理的に正しい人間にはもうなれない話

こんにちは

 

今回はとても短い話をします。

結論!

僕は日本に生まれ、特に強く望む職業を持ちえませんでした。

東京大学(或いは世間で言う、そこを卒業すれば高学歴として扱われる有数の大学)を卒業していません。

 

上記二点より、私の論理的に講釈は無意味である。

解説!

非常に簡単な話です。貴方の口は論理を語るが、特に目的もなく大学に行く場合、特に意味も無く有利がつく東京大学(或いは略)に行くのが合理的な判断と言えますよね?と攻められた場合返す言葉が無いということです。

 

学校と図書館を活用出来れば勉強はできます。それをしなかったのは自分の判断です。唯一反論できることがあるとすれば、過去と今は切り離して考えるべき、ということでしょう。

 

僕の主張

何が言いたいかと言うと、「東京大学(或いは略)に行かなかった非合理な人」であるにもかかわらず自分の都合で理屈を振り回そうとする輩が多いように思うという事です。

まあそれもそうです。人は誰も環境が違いますし、理屈は分かっていても東京大学(或いは略)に行けないなんて、ざらにある話です。そんな基準をもって、非合理な人と言われても…と思うことでしょう。

ただ僕としては、それは東京大学(或いは略)に行かなかった集団が共有する言い訳に過ぎず、通用しているのはその母数が多いから。という捉え方もできるのではないか?とも思っているのです。

何より母数が多く通用しているからセーフ!はあるかもしれませんが、「特に目的もなく大学に行くなら東京大学に行くべし」という理屈は誰かが本にするくらい理にかなっていて、僕のような人でも直感的に理解出来るレベルの様々な裏付けもある事なのです。

つまり、論理的に正しい事を突きつけようとするときに本当に自分がそれに足るか考えるべきでは?と僕は言いたい。

 

まあ仕事する上では、敢えてバカになって強引な理屈で押し切る必要もめちゃくちゃあるので仕方ないんですけどね。

 

忘れないで欲しいです。見方を変えれば自分が論理的思考力の低い人間と評されて然るべきかもしれないことを。

 

とまあ、ここまで書いたけど読んでくれてる人が全員東大卒だったらマジで意味無いですねこれ

 

それでは

 

 

宝くじを当てる人

はじめに

年末が近づいて来ましたね。

 

年末と言えば年末ジャンボです。今年も多くの人が大量に発行される紙に書かれた数字の組み合わせを見て一喜一憂することでしょう。

 

ところで私は最近パラドックスの解説動画を見ることにハマっています。少々唐突なのですが、これは無関係な話ではありません。それというのも今回は宝くじのことを考えながらパラドックスの動画を見ていた時に、ちょっとした思いつきがあったのでブログに書いておこうと、これをしたためているからです。

 

それでは早速話を始めましょう。

 

価値の思考実験

宝くじを買う人は多い。お金が増える確率で言えば競馬や株の方が高いと言われているのにもかかわらずです。それはおそらく勉強の必要がないからでしょう。

そう、宝くじを当てたければ、宝くじを買えばよいのです。とても楽ですよね。300円集める技術が無い以外、買えないという事は有り得ません。

 

少し遠回りをしましょう。皆さんは売れっ子アーティストと話せる権利か路上ライブをしているシケたツラのアーティスト気取りと話せる権利のどちらがお金を払ってでも欲しいですか?

答えは恐らく前者だと思います。何せ後者とは金をかけずとも話せる確率が高いですからね。最早、これは合理的な正解とも言えましょう。

そしてそれはつまり「前者と話すこと」それだけに付加価値を付けたということにもなります。もっと分かりやすく言うと「前者は後者よりも価値があると判断した」という事です。別に悪い訳ではありません。芸能人のトークライブなんていくらでもありますから。

ただ、このことから人間には機会や発言権、その他もろもろの自由を担保する平等と同時に(この一文を入れないと差別主義者討伐隊にシバかれるため。)その人の努力や判断、そして経験が成す「その人自身の価値」の存在が明らかとなるわけです。

 

さて、人間には価値があると明らかになったところで、そろそろ私が行った思考実験を紹介します。

思考実験!

「互いに同い年の、宝くじを当てて6億を手に入れただけの人と、6億円(45年間1333万円稼ぎ続けないといけない)を稼いだ人の語るあらゆる経験談の価値は同じか?同じでは無いならその理由は何か?※後者が6億を稼ぎ終えた時点で講演会を開くものとする。」

私は上記を思考実験における問い掛け部分にしました。何分哲学動画に最近ハマっただけの事なのでこれでいいのか分かりませんが、何となく価値は同じと答えるには問題がある様に感じますよね?

解答!

そしてこれに対する私の最初の見解は以下のようになりました。

「生きた時間と手にした成果が同じ人間の話であるため、その体験談の価値は等しい。」

明らかに直感に反する答えだと思いますが、勿論理由がありますので、それを記していこうと思います。

理由!

資本主義を採用する日本における一般的な実力の評価方法が、いくら稼いだか?になる(具体例:アーティストは稼いだ人の方が偉いとされる等。)ため。同じ時間で同じ金額を手にしている場合。実力は同じです。当然、実力の同じ人がする話は同じ価値を持つので、その話には同じ価値しかありません。

反論!

正直、最初の見解は嘘です。

いや、嘘と言うにはそれもまた少し違うのですが、誰であってもいくつかの直感的な反論が浮かびますよね?

例えば前者が6億を手にした瞬間にアーリーリタイアして、毎日適当に遊んで暮らし、なんの技術を身につけずに、取り敢えず財力任せで次の世代に繋いだだけの人物だとしたら、正直話を聞いても役に立つ事はなさそうです。

逆に後者の年収1333万×45年ですが、これはかなりの稼ぎです。サラリーマンのスタートが400万前後だとすると、何処かで5000万稼ぐとか、後半はずっと3000万超えの様な、類まれなる才能が成す年収を叩き出さないといけません。目の当たりにしたら息を飲むような技術を持っているか魅力的な経験談を持っている可能性が高く、興味のあるジャンルで活躍する人であればお金を払ってでも会いに行きたくなるでしょう。

上述の例から考えるに、やはり最初の見解は誤りの可能性が高いです。ただ私はそれを全くの間違いだとも思ってはいません。どうしてそう考えるのか?そして思考実験を経て何が理解出来たのか、最後にそれらを紹介したいと思います。

解説?

最初の見解を読んだ時、多くの人が誤りだと感じるのは、おそらく同じ時間で同じ金額を稼いだ人のことを同じ実力と述べた部分でしょう。

実は、私はこれに関して言えば、依然として正しいと考えています。そもそもこの実験を始めた時、頭の中で重要だと感じていたのは「運」「能力」「実力」の関係性を、自身の中ではハッキリさせておくことでした。

そのため、私は「実力」=「運」⊂「能力」という答えを用意し、これを裏切らないことにしました。

すると、「宝くじで6億円を当てた人」というのは「宝くじを買って6億円に当選する能力を持つ人」と言い換えられます。これは「簡単に真似することの出来ない能力を持つ人」とも捉えることが可能です。そして「簡単に真似することの出来ない能力を持つ人」には「年収1333万以上を稼ぐ技術を持つ人」も含まれます。つまり、両者が同じ集合の中に居ると考えられるという事です。

これにより「宝くじで6億に当選する技術の無い人間」と「年収1333万円以上稼ぐ技術を持つ人」の実力は同じであると言えます。

あくまでこれは個人的な了見であり、実力=運⊂能力が正の時の話ではありますが、最初の見解がそれっぽいのは、論理に則っているためと言えましょう。

 

そして、この思考実験から私が理解出来たことですが、それは「資本的な実力が等しい人の、第三者から見た価値は必ずしも等しい訳では無い。」という事です。

 

何を当たり前の事を…そう思う方も居るかもしれません。しかしながら、重要なのは当たり前と思っている事の理由を人は態々考えないという事です。そして何より、それを考える事で当たり前だと感じているいくつかの事柄に対して自らが取る立場を明確にすることができ、尚且つ関連するいくつかの言葉に対しても掘り下げることが可能な事が大切なのです。

例えば「能力」と「成果」が必ずしも比例することは無く、そこに「運」が絡む事は、誰でも知っている筈なのですが、「成果」から「実力」が低いと判断された時、怒りから人を傷つけるなど誤った反応をしてしまう事があります。

しかし、価値観の掘り下げが進んでおり、自分が確立している人は、「運」が悪く、「成果」が相手に伝わらなかったこと、それを即座に解決できる「能力」が無いことに気づき、落ち着いて対処ができる様になるのです。

 

また、この問題から、自分が人間自身に付く価値を資本的な価値のある物を持っている量で測らず、経験や技術に見出している事や、或いはそもそも人間に価値を付けているという事を見つけることが出来ます。そして、それは正しいことなのか?改めて思考実験を組み立て、重ねていく事でどんどん自己というモノをハッキリさせていけるのです。

それは間違いなく有意義なことです。

確かに金銭が生じ、空腹が満たされる訳ではありません。それでも、私が思考実験をする意義はこういった気づき、再発見が可能だということにあると思います。残念ながら私は哲学という大事なものよりも目先の食う寝るのために他の学問を優先したため偉そうなことは言えないのですが、この記事を読む皆さんにも改めてその領域を理解する必要性が伝わる事を願いながら、ここまでとしたいと思います。

 

それでは

 

 

 

 

 

ダメな生き方について

はじめに

生き方には、良し悪しがある。

 

そして勝ち負けもある。だかそれは、貧富に基づかない。考えてもみたら分かることだ。お金という文化を持たなければ、それを多く持つかどうかなど意味が無いだろう。

 

では何が、人生の良し悪しを分かつのか?

 

それは「考え方」である。誰とも知らぬ人の日記を読んでまで、何かを得ようとする皆様ならおそらくは問題ないと思うが、「悪しき生き方を避けるため」以下に私の考察をまとめ、記しておく。

 

考え方への認識が浅い

まず、何よりも先にこれが多くの人を貧しくさせる問題である。

 

どうしてそうなってしまったのか?これに対し、舐めていると思われるのは百も承知の上で敢えて言うと「日本人の人生」が「楽勝」寄りだからである。

 

無論、人とは世にある要素の組み合わせ、「難病」「極貧」「先天性障害」など、不幸と決めつけるには失礼であっても、「楽勝」と言い難いこれらの要素を持ち合わせることもあるだろう。

ただし、それらはあくまで例外だ。

 

殆ど多くの日本人は、子供の頃を真面目に(それも学力さえつければ無思考で)「楽勝」の人生を送ることが出来る。前述のことができるようになった人は、経営者、支配者、すなわち勝者の下で、奴隷の鎖の輝きを隣の奴隷や新入りの奴隷に見せ付けるながらプライドを守り、ただ堪えれば、それ程多くの責任を持たず生きることが出来るからだ。

 

こうした奴隷は仕事に思考を縛られる。金という人参を垂らされた馬なのだ。走っていれば気が済む、大金を渡せばすぐ引きこもりそうな、単純な人間になっていくのだ。無駄に合理的で、守ることしかしない。

 

またそれ故に、仕事で複雑なことを考えているから(それはそうであるとしても)と本質的なことは何も考えずに生きることになる。

 

死後、神前にて反省するべき人間にならぬよう。自分が哲学的にはどういう立場に立つのか、自分で決めておくよう勧めたい。

 

言葉を誤用する

非常に良く見るのは後述の三つだ。大人、仕事、現実これらである。

 

まず、大人と言うのは狡猾であったり、思っていることと違う表情をして我慢する者を表すことがままあるが、勿論そんな意味は無い。

それをしなければならない程、若い頃に頭を使えなかった人間が、カッコイイ言い訳を探した結果がそういう大人表現なのだ。

 

第一に狡猾に罠へかけることは、卑怯である。

私はなにも、それをするなとは言わないし、必要な時があることも知っているつもりだ。

ただ、そうすべき時にそうしたならば、私は卑怯な手を使ったと何故表現しないのか疑問である。ましてや大人の世界などと表現すると、それを目指してしまう卑怯な人間が増えるではないか、それは邪悪で、罪で、ただただ自尊心を守る行為だ。即刻やめるべきである。

 

もう一つの意味、感情とは別の表情を浮かべた時に大人と表現することも、出来れば辞めた方がいい。

調和のために必要だとして笑顔を振りまいたならば、それは大変立派であるが、やはり耐えたとか、やり過ごした事実から目を背けるのはよくない。仮にも大人と言うのは子供から成長し、成るものである。

そこに後ろめたいものを結びつけたがるのは、弱者の自尊心都合だと言わざるを得ない。

 

仕事、これは問題外の誤用がある。あるべき姿を間違えているのだから、当然と言えよう。

その間違いとは仕事が厳しいということ、実は当然と思っているこれ、半分くらい間違いなのである。また、これを使って厳しく叱責してしまう者に限っては全てが間違っているとさえ言える。

仕事の源流は農耕もしくは狩猟である。衣食住などと言うが、究極、生物が生きていくために必要なのは、食と性交渉と眠りだ。つまり、仕事とは食に関すること、農耕、狩猟であって、人類が戦うべき相手は自然である。ゆえに、人間が人間を働きたくないと感じさせるために仕事は厳しい等と言うのはナンセンス、そう、論外なのだ。

所詮、自尊心を守るために、自分は厳しいことを耐えて生きてるよと誇示する自慰行為のために使っているのだけなのだから、そういった誤用はやめるべきである。

 

現実、これの誤用は非常に良くない。誰が流行らせたのか、この言葉は何故か人の挑戦を妨げる使い方をされているのだ。おそらく夢の対義語としてだろうが、全くの誤りである。

 

まず人の挑戦と結果は未来に存在する。確かに夢追い人はそれを夢物語として語るだろうが、実のところ、未来の現実について話しているだけで、寝ている間に見る、全くのデタラメとは大きく異なるのだ。何か挑戦してみないと分からないことに対して、こういうリスクがあるよ、前例はこうだよと示すのは正しいが、現実を見ろと言うのは誤用、やめるべきである。

 

また、現実的な生活を略して現実という輩が居る。これはまっこと迷惑であり、誤りだ。まず、現実的と現実は別の言葉、現実の中には自己実現を果たした勝者が存在しているのだ。

 

こういった現実の使い方をする者は気づいていないのか、それとも気づいていてそうしているのか、現実的至上を掲げて、結局現状維持の向上心に欠ける生活を送りがちである。それは、到底評価できない。

 

自らが向上心のあるもの、漱石に言わせれば馬鹿でないものと胸を張って言うためにも、現実を現実的と取り違えるのはやめるべきである。

 

強者は悪いことをしてると思う

単純な話、これは違う、強者は自分よりも多くの責任を負っている。組体操の一番上は一度下がサボれば命の危険に晒されるのだ。

 

語るに多くない。ノブレス・オブリージュと言う表現もある。

 

何より、これをよくするものに限って人生全体への思慮が浅い。青春時代をいい加減に謳歌したものと勉強をしたものとで生まれている差だと痛感したりしないのだろうか、自分が呑気にしていた頃、強者は人生謳歌する土台作りをしていたんだと考え、反省し、自分を高めようという意志が、強者は悪いことをして登って行ったのだと思うものには欠けている。

 

すなわち、これをする者には向上心がないのだ。よって、強者と悪者を安易に結びつけるのは控えるべきである。

 

人の話を本気で信じない

自分を責める言葉というのは信じたくないものだが、本気で信じて自分を変えてみると、あとで良かったと思うこともあるものだ。

 

私は修士卒であるが、社会人になりたての頃、高卒と思しき人間に「バカだ」「中卒レベルだ」等と言われたことがある。それ以外にも厳しい説教を何度か受けた。

修士過程を出る直前ですら、同級生に比べ圧倒的に長い時間研究に費やしたにも関わらず「お前は社会に出るべきではない」「お前の修了に前向きな他の教授にやめろと言った」等と言われてきた、その後のことである。

 

だが私は運が良かった。この間には大手一流企業研究室で働く、自己実現者集団と能動的に働いた期間があったのだ。(派遣で正社員登用もないのでやむなく退職したが)そしてこの時、己が研究室に長い時間篭もり研究に努めたことも、評価されるべきものではなく、低スペックな自分のせいだと思わせられたのだ。

正しく生きた人間は、素晴らしい集団を形成し、自らの意思で仕事へと向かう。そこには、それに至るために「やらされた実験や勉強」をした訳ではなく、「必要と考え取り組んだ実験や勉強」を持つ者がいた。

それを知ったからこそ、自分はまだ責められる立場にあると思えたのだ。

 

この後、恥ずかしながら高卒の方とご一緒した職場は退職となり、今は中堅企業の総合職社員となっている。その結果から鑑みるに、自分を責める言葉を本気で受け取ったことがよかったのではないかと考えている。

 

結論として言いたいのは、都合の悪い人の話というのは直ぐには嫌な思いしかないが、後に生きてくるから信じなさい、という事である。

 

実はここ、この後の格下は無視しろと、少し矛盾を感じさせる項で申し訳ないが、内容の違いと分かれば矛盾もないと伝わるはずだ。それは読み手が賢明であることを信じる以外ない。

 

自己肯定感が低いのに腰が重い

謙虚、それは美徳とされることだ。だが、セルフハンディキャッピングという言葉もある。それは俗に言う「ハードル下げ」だ。

 

環境が違えば、この考え方は違ったかもしれない。ただ私の務める会社では、自分は大したことないですよなどと言うと、やらなくても済んだり、大したことないから出来ないの因果が成立して、軽めの仕事で済まされるようになる。

しかも、一つそこそこの仕事を納得して持てば周りも指摘し難くなり、プライドや出世をある程度控えさえすれば安定した椅子が出来上がるのだ。(無論、全てがそうではないだろう)正直に言えば、これ程タチの悪い者はない。

 

確かに、ただ生きるだけなら、或いは守りたい家庭があり、納得しているならばそれでいいのかもしれない。いや、それが最もいいという考え方すらありうるだろう。だが、マズローの欲求5段階説に基づき、より高度な領域を目指すならば、そうはいかないのだ。

 

そも、自己実現に向かいたいという意志があるならば、自己評価は正確でないといけない。謙虚を美徳とするあまり自己評価を不当に下げると、自分の可能性を狭めかねないのだ。それは危険な行為である。

また、成功者は口々に根拠の無い自信こそが一番必要だったということを語っている。このことからも咎められる行為だと言えよう。

 

自己評価を下げ、やれること以外に腰を重くし、楽して生き延びることが悪いとは言わないが、そうして楽な暮らしを手にしても決して尊敬されることも、誇れることもないことは間違いない。そして、それはきっと凄く退屈なものでもある。

 

真に楽しく生きたいならば、ハードル下げの癖、楽したがる癖は捨てた方がいい。確りと自分の価値、可能性を認めて、重い腰を上げて挑戦と失敗のある道を歩むべきである。

 

強者の悪口を言う

簡単に言うのは、どう考えても頭が悪い。

 

例えば東大生が転んだとき、それに群がる無名大学出身者を見る。私の目に哀れなのは転んでいる方でなく群がってヘラヘラ笑っている方だ。

このように大物がコケる度、デカい声でデカいことを言う普通の人を見るが、その度、そんな自慰行為をひけらかす恥知らずなどには成りたくないなと私は感じている。

 

私が強者の悪口を言わない理由はとても簡単、特に東大生の場合はシンプルで、自分が東大に入る程の人生巧者でないと分かっているからである。

 

そも、私の考えでは行動こそが他人に伝わる全てで、かつ理解していることを示す姿勢でもあるため、安易に指を差して笑うことは、そうした分別がないと主張していることになる。

これを言うと、心ではそういった分別がありますだとか、聞かれたら分かっていると答えますだとか、そんな主張する輩がいるが、それは一切の意味を持たない。伝わったことが全てなのだ。

 

つまり、指を差して笑ったが最後、東大の例で言えば「自分が東大に入る程勉強しなかった事実」などを蔑ろにして、悦に入る程度の低い人間であることが示されることになる。それは誰にとっても不本意なことだろう。

先程、自己実現のために根拠の無い自信を持てとは言ったが、人を貶すための根拠の無い自信は恥ずかしい物にほかならない。

自分を客観視できていると証明する為にも、そういったニュースにはコメントを控えるべきである。

 

成功しなければ価値がないと思う

阿呆。であればどうして挑戦できるのか?という話である。

 

確かに失敗をすれば、その先の人生は厳しいだろう。何かお金をかけていたとしたら、それも見かけ上は無駄になる。だが、そのリスクを考慮に入れても。挑戦とその経験の方が人生において大事なのである。

月並みな表現だが、若いうちの苦労は買ってでもしろということだ。

 

そもそも、どんなにお金を貯めた(無論、お金持ちになれば成功ではなく。生きたい生き方で生活が不自由しないことが重要。)とて、人は等しく死ぬ。

寧ろ、健康を著しく害して高額を稼いだとしても、翌日に死に、やりたいと思っていたことも出来ずにこの世を去ったならば、そこに何が残るのだろうか。いや、何も残らないはずだ。

つまり、お金をかけて失敗するかもしれないことに挑戦すること(それが本当にやりたいことに繋がっている)こそが、お金の奴隷を生きず、人を生きる為に最も大切なことなのである。

 

ただ、無責任かつ無鉄砲な物言いをした私から一つだけ守りの言葉を言うと、挑戦する前に可能な限り悪質な借金をしないで挑戦できる環境作りに努めた方が良いと考えている。

 

大局を見ない

うちの会社では伸びなかった人材ほど、目先の損得に囚われている。また、利己的で容易く人を馬鹿にする所がある。何れも浅慮であり、敢えて強弱で言うならば弱者他ならない。

 

大局とは言いすぎたかもしれないが、周辺にいる人は繋がっており、その全てと未来を共にすると理解してない行動を取る者を揶揄したいのである。

 

残念ながら、本意でない仕事であろうと、いけ好かない人間だろうと、真の強者を表現したいのであれば、良く思っている風に見せなければならない。己を切る部分もあるだろうが、自らとは社会に比して小さいのである。

 

真の強者は知っている。良き姿勢、良い人当たり、無償の親切が、巡り巡って自分の周りを良い人だらけにすることを。

 

環境に恵まれて、強きに在り続ける者は貧しい者よりも、単に人格が優れているのだ。

 

格下にかまう、弄る

自尊心とは厄介なもので、格下が居るということだけで守られてしまう。

 

隣に格下がいることで、山ほど格上の人間がいるにも関わらず怠け始める者がどれほど多いことか、そんな格下を弄って悦にいることで自尊心を保っている者が、向上するはずもない。

それだけでなく、楽しいからと弄りに巻き込んだり、井の中で威張りはじめたらもう終い、本人は自分を偉大だと思い、周りには内心冷めた目で見られることだろう。

 

格下の存在を良い意味で無視し、上を向くことが大事である。

 

全力でやってる事がない

ない。どこかに余裕を演じるためのスペースを作っていて、最終的にそれは言い訳置き場だったという事が多い。

 

ここで敢えて良い要素のように言うと、論理的で賢いように話をするには、全力で物事に取り組まない方が望ましい。あくまでも個人的な、けれども、経験に基づいた意見としてその根拠を述べると、全力で取り組むという行為は理不尽と出会う確率を引き上げるものだからだ。

 

例えば貴方が野球が大好きな人間に生まれ、必死で取り組んだとしよう。努力は必ず報われると、色恋、娯楽全てを無視し、一心不乱にバットを振り続け野球を学ぶ事も忘れず。指導者に寸分の誤りなく育てられ、あらゆる努力を尽くした結果、何故か球速が出ないとしたらそれはなんと言えようか。それは、理不尽に他ならない。

 

しかし、ここでその人は俯くだろうか?否、それは決してない。色恋、娯楽を捨てられるほど強い者なのだから当然だ。そして、この人は限界という自分で決めた檻の中に閉じ込めてしまう呪縛から、寧ろ解き放たれる。

 

神の与えた限界までは走って良いと、走ってみないとわからないという事を理解するからだ。

結果、その場限りの合理性で線を引いた。小さくまとまるためだけの面白くない、思い込みの限界は無くなり、成功するかもしれないと走ってみるだけのことがもつ価値を知る面白い人へと進化する。

 

そこには合理的で透明でくだらない歯車から「夢見がちな子供」と批判されることもあるかもしれないが、そんな自分の全力を見に行ったことの無い人は、無視されて然り。最終的にその人生にはとても大きな良し悪しの差が生まれていることだろう。

 

現代において最も効率良く自尊心を守る方法は、恐らくインターネットで正論を語り、誰かに承認されるという行為を続けることだ。

 

だが、とても簡単な話。人間社会は論理的に正しい事ばかりで回ってなどいない。盾ばかり強化しても強大な敵に打ち勝つことは出来ないという事である。

 

最大値で自分を語る

つまらない人にとても多い。これに関して言うことはほとんどない。それは過去です。今の貴方は、大概の場合それ程でもないかもしれません。

 

何かの大会で優勝したとか、賞を受賞した等伝わる実績でもないものは特に示したり、自分をよく見せるためにわざわざ使うもんでもないです。止めましょう。

 

例外を中心に据えて否定する

気づかずにしてしまう人が沢山いる話。環境と人の関係性を分かっているようで分かっていない人がしがちである。

 

成功者には「最初から成功できる環境にあった人」「本人の異常な精神力によって成功を得た人」がいる。初めに認識して欲しいのは、後者が環境を無視して成功した理由が「異常な」精神力であることだ。すなわち、後者の存在は明らかな例外で、一般にはあてはまらないのである。つまり、成功する者を育てたい場合、その対象となる子は殆ど後者ではないという事になる。

加えて、先に説明しておくのだが成功できる環境を整えるには、よほど家柄が良くない限り莫大なお金が必要である。前者として成功させるのにお金が必要という事なのだ。

 

しかしながらよく見かけるのは、後者を信奉した過度な根性論である。自分の子供が環境を嘆いた発言をしても、後者を持ち出し突き放し、寄り添わずして押さえ込む、お金を使いたくないからだ。そして、その上で才能を語る。例外的な成功者を持ち出し、世に多くある成功例とは異なる稀有な成功を信じてしまうのだ。

 

残念な事に、そうして育てられた人は同じ事を繰り返す。成功するために必要なもの「努力」と「環境」ではなく「類まれなる才能」だと信じてしまっているから。こうして格差は広がっていくが、それはどこかで投資に踏み切れない者達にも問題があるということである。

 

蛙の子は蛙です。自分以上の成功を望むならば自分を超える投資、環境作るベガなのである。

 

終わりに

長々と語っては来たが、結局何が言いたいのかをまとめると、然るべき事として、弱い立場にある者(予防線ですが当方も含む。)が存在しているということだ。そして、傾向として、その立場にあるものに限って根本的な考え方が間違っている事が多いと言うこともである。

 

おそらく仕方の無いことなのだ。それは弱者の持つ間違いである考え方は甘く、そして、より良い考え方として私が考えているこれらが、「お前が今弱いのは、お前の人生がヘタクソだったから」という誰であっても向き合いたくないことをベースに突き詰めていったことであるから。聞き入れられなくても、やむを得ないのである。

ただ、はっきり言えることがある。それは格差や現状の成否と向き合うにあたって「アイツは運が良かった」「才能があった」などを言うよりも「自分に何が足りないのだろう」「自分が失敗してるとしたら何がその原因だろう」と考えた方がいいということである。

 

さらに、重要なことを付け加える、

それは、実は路傍の石である私でもこれくらいは考えているという事だ。

これを読むたった数名も、おそらく考えていると思うので、何もマウントを取ろうと言う訳ではない、単純に、啓発的な内容を書く、つまり考えているのは、本を出すような偉い人、学歴がある人のような特別な成功者だけでは無いという事を伝えたいのである。

啓発的な内容を考えること自体、特別な人がすること、という括りにそれを逃がすと、また甘い考えが始まってしまいかねない。それは、何よりこの記事で初めに書いた「考え方についての認識」を高められない事であり、意図に反することなのである。

 

もし今、これを読んだ人がそこまで「考えてなかったな」と感じたならば、是非とも「考えて」欲しいと、それこそが私の意図であり願いだ。

 

また暫く更新は間を置くだろうが、そろそろ疲れてきたので今回はここで終わる。

 

願わくばこれを読んだ人が、ダメな生き方を見直し創造的な人物として世に名を馳せて欲しいと記して

 

それでは

 

 

 

 

引きこもりにも適性があると気づいた

はじめに

今、世の中は未曾有の事態となっている。故に、生きた証を残したいと思うのは然りと言えよう。

 

一応私はまだアラサーなので、その騒動によるリスクは少ない方ではあるが、社会全体を考えた時、最早侮った様な発言をすべき事態ではない。

 

当然、不要不急の外出は控えるべきであるが、ここにきて気づいたことがある。

 

それが表題、引きこもりにも適性があるということである。

 

消費型と創造型

長くなりがちなので結論は先に書くようにした。今回の結論、ずばり最も引きこもり適性が高い人は、創造型の人間なのだ。

 

人間の遊び、ストレス解消法には二つある。そして、それは消費と創造のそれぞれ二つの方向性を含んでいるのだ。これについては、わかり易く二人の人間を使って説明しよう。

 

休みの日になった時、レジャーに出かける人はとても多い、好きなアーティストのライブを見に行く人も居れば、家の中で映画を観たり、本を読んだり、ゲームに没頭する人もいることだろう。これらの人は皆消費型で後半はインドア派に思えるため引きこもり適性が高く思えるが、実際のところ引きこもりきるには難しいだろう。

 

何故そうなるかと言うと、消費型の趣味というのは、究極的には何もやらなくて良いからだ。そして唯一、買う必要があるので外に出る必要がある。だから引きこもりきれないのだ。

 

否、インドア派の方であれば電子化が進んでいるので家から出なくても良いが、それでも少し期間が伸びるだけだと私は思う。そもそも本を何冊も読むだとか映画を何本も続けて見るという行為は疲れるものだ。それは媒体にある情報から刺激を受けるからに他ならず。それを処理するのに僅かばかりストレスを感じるからである。そうするとまた別の気分転換が必要になるが、消費型である事にこだわると、ここで詰む。

 

すなわち、消費型の人間でありつづける以上、自粛生活をつらいと感じざるを得ないのだ。

そして、そうなると自粛生活に耐性のある創造型について興味が湧いてくることだろう。

創造型の良さについては、見出しを改めた方が良いほどあるので一旦ここでこの項は閉じることとする。まとめると、消費するだけの人間生活を送っている人は引きこもり適性が低いということである。

(それについて善し悪しはない。)

 

創造型になる大チャンス到来

自粛生活、配られた労働に耐え、休日をリフレッシュという名目で消費するだけに費やした人にとっては、リフレッシュの道が絶たれて大変かと思う。およそ、その二つをして忙しいと成っていた生活に気付かされ、忙しいことが幸せだったと思っているかもしれない。

 

これだけはハッキリと言ってしまうが、それは違う。私が思うに忙しい以上の不幸はない、なぜなら「考える」時間を失うからだ。多少の忙しさで脳を埋め、生活が安定すれば…という考え方を持ちそれを実行することは愚かである事限りない。

逆を言えば今、まさに考える時間である。そして何をすべきか、それが「創造」だと私は思うのだ。「創造」にはメリットが沢山あるし、お金もかからない、何より家から出なくて良い。唯一の欠点は時間が必要なことだけである。

消費型の娯楽ができない今、間違いなく「創造」に手を出すべき時ではなかろうか?

 

皆がこのチャンスを逃さないため、これより「創造」の利点を列挙していこうと思う。

 

創造のメリット:お金が貯まる

創造するための道具には、お金をかけたほうがいい。残念ながらそれは事実だ。ペンタブ、DAWソフト、筆や画材、教本、人によって色んな表現がありそれに使う道具がある。もし貴方が独身で社会人ならば、道具はプロが使うものと同じにした方がいい。道具を言い訳にしない方が良いからだ。

 

それでも創造をするとお金が貯まる。何故か、道具を使いこなす様になるまで、使い込んでる間、追加でお金を使わないからだ。

 

手を出してみたらわかると思うが、創造に最も必要なのは「時間」であり「金」ではない。だから、お金が貯まるのだ。

創造のメリット:できるが増える

消費型の趣味、例えば読書が好きだとして、貴方は物語が書けるだろうか?書けるならば、否、書こうと思うならば、その読書はとても良い趣味だ。

 

無論、本を読んで想像を膨らまし、物語を堪能することは悪い趣味ではない。しかしながら、それだけでは勿体ないのだ。消費型の楽しみ方を強く非難するつもりは無いが、創造に辿り着かなければ、「読書をして何もしなかった。」と言えてしまうのである。

 

しかしながら、創造に辿り着けば話は変わる。貴方は物語を紡げる人となり、貴方の人生には遺せる物が増えるのである。

創造のメリット:当たるかもしれない

何もしないと、何もしなかった明日が来る。何かしても、大して変わらない事がほとんどで、ずっと娯楽漬けにできたはずの時間は、創造の苦しみをもって損失となる事もあろう。

 

だが、創造は成果物を残す。長い間残り続ける。もしかしたら、直後はなんともなくても、いつの日か多くの目に触れるかもしれない。このインターネット時代は特にそうで、何かを恥じることなく表現した結果、大きく躍進した人も少なくはない。

 

本当に何もしないと、ただただ何も起きない。だが、何かすると何も起きないとは言い難い。0と限りなく0に近いは本質的に全く別なのだ。短絡的に楽しいを集めるだけの0人間を創造により卒業すべきではなかろうか。

創造のメリット:考える時間が増える

日々仕事をしていると、口の中に突っ込まれた仕事を噛んで飲み込む程度は考えるので、人は自分が考えて生きているのだと勘違いをする。いつの間にか誰かの人生を応援して、誰かに決められた嗜好品でストレスを抑え込み、よく分からないリールの回転に汗と涙をかけて稼いだ金を持ってかれることさえ疑問に思わなくなる。いつしか後進を同じような人生に巻き込み。肩を組むことで全て忘れるのだが、肩も組めないこのご時世、考えてない事を思い出したのではなかろうか?

 

そのストレスや後悔に向き合えず。真面目ぶって仕事したいだなんて嘘を吐かないで、創造の喜びを知るべき時、それが今だ。絵や音楽が難しければ文章で良いので、是非とも時間をかけ、ゆっくりと自分について考え文章をまとめてみてほしい。

創造のメリット:家から出ない!

このご時世において、最高。この点に関してはそれだけである。

 

終わりに

いかがだっただろうか?長々書き連ねたが、要するに「創造」は最高という事である。確かに時間がかかり、質によってはリターンが少ないのも事実だが、創造のリターンはなにも現世にいる自分だけに留まらない。

イタズラに消費し続けた人に比べ、自分の人生というものに対する主張が強くなるのだ。一言で言うと人生が深くなるのである。

 

だから、今すぐ「創造」始めよう。無論、これから先も消費はするだろうが、この先の消費は全て「創造」の肥やし、「人生の深み」を育むための物になる、そのための時間を時世が支えているのだから。

 

(いや、もう自粛終わりそうだけどね)

 

それでは。