お前に何がわかる
導入
私には何もわからない。
たまに、数年前のTwitterで、4桁のフォロワーを持つ人がよく「お前に何がわかる」と呟いていたのを思い出します。数年前は共感性の高いつぶやきに対し、リプライなどをつけず、「わかる」だけつぶやく人が多かったので何かと思うところがあったのでしょう。
今回の考察対象は「理解」です。
これまでの記事を読み返し、今の自分と答えを合わせると、やはり差異が現れます。
これは浅学非才な私にとって理解できていることが少ないため、常に新たな変化が起きているからと考えました。
よって「理解」自体を再考することが、今回の目的です。そして自分がかつて理解した領域を、忘れていないか、どの記事でまとめた考えは理解し続けるのかを選んでいこうと思います。また、コミュニケーションにおける理解について一つのアイデアが浮かんだのでここに記録しようと思います。
ありえんわかりみが深い
まず、理解には2つの段階があります。それを伝えるために例え話をしましょう。
この世界には「最初から使える人材などいない」という理屈で言えばすぐ理解出来ることがあります。
町工場のおじさんにこの理屈を述べたならば「そんなことはわかっている」(なにをこの青二才が!)と思うことでしょう。
次に、東大卒のハイパーエリートが町工場に研修に来て、慣れていれば誰でもできる工場特有の操作でポカミスをしたとします。
この時、町工場のおじさんはこう言うのです。
「いい大学を出ておいて、そんなこともわからんのか」
ありそうなフレーズです。
さて、今ここに理解における2つのレベルが示されました。
同時に、町工場のおじさんは理解レベル1で何十年と生きていることが明らかとなりました。先程の些細な言葉遣いが理解レベルの低さを露呈させたのです。
言葉の裏には考え(意識)が伴います。
先述の「いい大学を出ておいて、そんなこともわからんのか」の裏側には「いい大学を出た人材は最初から使えるはず」という考えがあることはお分かり頂けると思います。
これこそが理解の極意。
町工場のおじさんは「最初から使える人材なんていない」ということを言葉で説けば、理解していると述べるにもかかわらず。行動は、あるいは表現が全く逆になっているのです。
この結果を生む理由こそが理解レベル2への未到達です。
改めてこの言動を見てみると「いい大学」へのコンプレックスや自分の仕事への誇りを感じます。(私はそう表現しているつもりです。)
すなわち、自尊心が言動に影響し理解していることの体現を妨げていると分析できます。
つまり、理解レベル2とは行動によって理解していることが表現され、初めて本当の理解だという考え方です。
言葉で整理します。
理解レベル1はそのまま、理解です。
理解レベル2は、体現です。
私はこの私が生み出した理解への理解の名を、理解-体現論とし脳に保管しています。そして自らが事を行う、あるいは語るにあたり体現ベースで理解できているかを問うようにしています。
余談ですが名付けて管理することは、重要です。誰の哲学かは、忘れてしまいましたが名前は物事を理解するうえで入り口になりうるものです。
形あるものであれば、形に帰ることができますが考え方であればなおのこと名前を必要とします。
少し話が逸れましたがおそらく理解のレベルについては腑に落ちていると思います。この世界には、歳を重ねていても理解レベル1を理解として生きている人が沢山います。また、体現を知ったとて、体現の世界はあまりに高い理想に満ちています。
ただほんの少しだけ、自分に体現できていることを考えて生活してみるといいかもしれないと思います。
理解とコミュニケーション
皆さんはコミュニケーション力に自負がありますか?
このブログを読んでくれる方です。おそらく自負ほどのものはないでしょう。
かつてニーチェは神を否定しました。
弱者が強者に劣らぬところを探し、現代でいう「奴隷の鎖の輝き」のようなものを誇りにして強者叩きをし(ルサンチマン)、それを評価してくれるのは神だと考えて、弱者間でシェアしただけの存在と考えたからです。
ではコミュニケーション力ってなんでしょう?現代では、コミュニケーション力が人生を決めるすべてと、まるで神のように扱われています。しかしよくよく神を考えてみると、ニーチェ程の知者が弱者の内輪ネタだというくらいには不確かなものでした。
こう考えるとコミュニケーション力は不確かなものという単純明快な事実とともに、一つの疑念が浮かびます。
コミュニケーション力ってもしかして内輪ネタじゃないか?
さて、世間体の支配する領域は巨大です。その内側でコミュニケーションが円滑に行え、かつ外側を無視する時、知っている全てと円滑にコミュニケーションが行える事になります。
こうして自分が多数派に溶け込めた時、人は間違ったコミュニケーション力観を持ってしまうことがあります。日本で生きているとスクールカーストのように、見えざる上位下位グループ形成が行われていることに気づきます。
私はしばしば下位グループに属する(属していると多数に思われる)人物が、上位グループの退屈な笑い話より、遥かに笑える話をしても笑いが起きないという不満を聞きます。
これに加え上位グループが「は?」や「つまんね」と言って、カースト下位の言ったことは面白くないけど俺は面白い(共感性や構成からはカースト下位の言ったことが本当は面白い)となるということがあったなどという愚痴は、カースト下位のオアシスであるインターネットでよく聞きます。
話が面白いかどうかは主観に拠るので判断はしづらいですが、このケースのように発言者の立場が発言内容の価値に影響していると思うことは頻繁にあります。
また、人は内輪でスムーズにコミュニケーションができ、部外者と上手くコミュニケーションできないケースを「部外者のコミュニケーション力が低い」とすることが多いです。
コミュニケーション力が相手と意思疎通する能力である場合、より多くの相手と意思疎通できることを、その力が高いと呼ぶべきです。そういった人の方が情報収集の力が高く仕事等で的確な判断を出しやすいですから道理といえます。
このようにコミュニケーション力を内輪のものとしてしまうと、相手への理解に欠けている状態で部外者のコミュニケーション力を貶すということが起きますが、実はコミュニケーション力の高さが体現できている場合、それはできない筈です。より多くの人とコミュニケーションが取れなくなるからです。
高度な体現レベルの世界において、相手のコミュニケーション力否定は自らの理解レベルの低さを露呈させるのです。しかし、このことは多くの人に知られていません。歳を多く重ねていてもです。それどころか自らの属するコミューンが生み出す内輪のコミュニケーション力観に巻き込まれ、それを盲信して生きている人が多いと感じます。
兎も角も、理解について考え、その後体現を考えた時、コミュニケーション力というもの程不確かで毎度見直すべきものは無いなと私は考えました。
総括
さて、色々と述べましたがお互いベストを尽くしていても、言葉を取り違える頻度が高い人はいます。
その場合は話す機会をさりげなく減らすという対応もやむを得ないでしょう。
残念ながら生きていく上で、全ての人と仲良くする必要はありません。大多数が理解している内輪のコミュニケーション力を実際には使って生きていくこともあります。
有り体に言えば私自身、内輪のコミュニケーション力に合わせて会話をしていることがほとんどです。悲しいことです。
ここまで読んでくださった方、毎度ありがとうございます。
それでは