厨二病日記

取り敢えず患った不治の病が厨二病でよかった Twitterは @Pott0N_mush

終わりのないお茶会

導入

不思議の国のアリスの一節「終わりのないお茶会」というのは、ゴシック要素のある創作でよく耳にするので知っている方も少なくはないだろう。

 

終わることがない会話というのは確かに気が狂っているように思える。何せ寡黙な人というのも世の中には大勢いるわけで、おしゃべりな人でさえ、ずっと話していると口が乾いてしまう。疲れてしまって限界が来るはずだ。だからこそ、そのお茶会は狂気に満ちていて、「狂ったお茶会」とも呼ばれたのだ。

 

しかし、本当にずっと話し続けることは狂っているだろうか?そんな疑問に対し興味深い伝聞が転がり込んできた。

 

伝聞元の知人が言うには、ベラ・レーヌという方によると「意識は喋りつづけている」らしい。

 

大分要約された話を聞いてきたようだったが、面白い切り口だったので少し掘り下げた内容をそのままお伝えすると以下のようになる。

 

何気ない日常で人が電車に乗る。するととっても混んでいたわけだが、その時、声に出ずとも意識は話しているのだ。

例えば、「うわっ、混んでいるなあ。座れないや。」などと言ったように、なるほどそれはよくあることだ。衆人監視の中で声になることはないが意識は確かに話している。

 

さて今回は、これが本当のことだと思える面白い現象を二つを語るとしよう。というわけで今回も最後までお付き合い願いたい。

 

SNSが流行ること

(見直したらここからですます調に変わってますが気にしないでくだせぇ…。)

世はまさに大インターネット時代ですが、SNSが流行ると言うのはこれまさに「意識がずっと話していること」の証左です。

 

特に、Twitterのような短文投稿型はずっと話し続けている中の断片を直ぐに書き込んで発信できるため、見直すと特に意味が無いようなことだったり、本来ならば言わないレベルのくだらないことが記録されたりしています。しかし、これこそが生の意識です。

FacebookInstagramに比べて考えてから出るまでのテンポが早く、フィルターにかける時間が無いのでツイートは新鮮な意識の声と言えましょう。

 

具体例として先程の衆人監視の中で言葉にしないことを考えるとより深く納得できます。「うわっ、○○線混んでいるなあ、座れない。最悪。」みたいなツイート、よく見ますよね?

 

日本においてよく見るということは、許されているということになります。(偏見)口にしようものなら「最悪。」の文言がひんしゅくを買いかねない発言ですがTwitterならセーフなのです。意識を自由に発言できるというのは素敵ですね。

 

私はこれがTwitterの流行った理由だとおもいます。昔であれば刹那思っただけで何も残らない意識を投げるだけで、場合によっては誰かがいいね!(ふぁぼ)するかもしれないのです。普通に生きてるより楽しみが増えますから、流行るわけです。

 

どうです?巡り巡って意識がずっと話し続けてることにも納得ができてきたと思います。

というわけで次に「意識が喋り続けているんだなあ」と思わされる人物についての話を書こうかなと思います。

 

独り言の多い人

私の職場には独り言の多い人がいます。私はインターネットのお陰で意識を書き置く方法を手にしたので、そうはなりませんでした。念の為に言うのですが、私ではないです。

 

あと、流石に実名は挙げられませんので、ここではかの者としましょう。

 

さて、独り言がとても多いかの者ですが典型的な仕事が追いつかない人で、かねてより叱責されることが多かったそうです。

 

そこで私が気になったのは、かの者が元々独り言を出す人だったのか(評判が悪い行為でよく咎められているので)、寧ろ叱責の対策として後から始めたことなのかという所です。

 

電車やバスの中など衆人監視の中で、人は普通静かにしているものです。かの者も朝礼などでは静かにできています。一つ興味深い点はかの者が独り言を出すのが決まって仕事中、特に製品を取り扱う時や動き出す前等であることです。

 

私は先程、かの者の独り言を「本人の癖」と「叱責対策」の二つで考えていると言いましたが、この独り言が出ているタイミングこそ私が後者を考える理由です。

 

これから何をしようと考えているか、その「意識の声」を敢えて全て出しながら動くことで、かの者は「警告」したいのだと思います。かの者の独り言は注意して聞くと「私の今の行動はこうです。今からこういう理由でこういう仕事をします。」という旨の繰り返しなのですが、私にはこれが「これからすることを聞こえるように言ってるんだから間違っていたら止めろ」という警告のように聞こえます。或いは何も言われないことで、本人的に許可されたこととしたいのかも知れません。つまりかの者にとって独り言はこれからの行動について確認を取る行為と考えられます。

 

ただ、「こちら側」は普通に仕事をしているわけですから、近くでブツブツと言葉を発し続けられても不気味ですし、集中を乱され迷惑に感じる人も居ます。

この辺りは余談になりますが、かの者には早くそれに気づいて貰って、仕事でミスしない別の方法を考えてもらいたいものです。

 

さて、彼のユニークな一面とその理由に関する推察を話してきましたが、重要なのは意図すれば絶え間なく独り言を出せるということです。

私が思うに、これも意識がずっと喋り続けていることの充分な証明になります。

 

やはり「意識は喋り続けている」のです。そして自分の独り言は生に近い意識なのです。

 

切っ掛けは何気ない雑談からの伝聞でしたが、私にとって興味深い発見をすることができました。ここで二つの現象については話を終えます。最後にこれを受けて変わった考え方含めまとめを記しますので、もう暫くお付き合いをと思います。

 

終わりに

私がこの「ベラ・レーヌシステム(というそうです)」を知った時、私の中で根付いていた旧来の考え方は大きく変わることとなりました。

 

今まで私は精神には無の状態があり、なにかしら思ったことが生まれて、それを発話する。という順番で発話を捉えていました。これに基づくと無口な人というのは精神が無の状態に長くあることになります。

勿論、思ったけど口に出さなかった。というパターンもあるので、長い間無の状態にあると言うことはないと思いますが、それでも無の状態というものがあると思っていたのです。

 

しかし、人間の意識は喋り続けていて、それが本当だと今は思います。(※個人の信じる信じないであり、科学的根拠に基づかない。)人は常に「何か」を考えていて、大小や必要に応じ「忘れる」「記憶する」「発話する」「体を動かす」などの行動を取っているのです。

 

ただでさえ興味深い事実ですが、何よりも重要なのは「意識」は常にアクティブモードなのに対し「行動」は社会的制約を受けているという点です。そんな社会の中で「生の意識」を発したり受け取ったりできるSNSが発展したことは、人がより自由になるための大きな前進なのかも知れません。

 

ただ、一時期の過激YouTuberによる犯罪まがい行為を鑑みると社会的制約も一方で重要なのだと改めて思い知らされます。

 

何はともあれ、SNSが許可する自由な意識の発信、それが人に何をもたらすのか?についてはこれからに期待したいものです。

 

それでは!