厨二病日記

取り敢えず患った不治の病が厨二病でよかった Twitterは @Pott0N_mush

個人と社会

世界と社会と僕と

人間は社会的動物です。社会を形成し、その中で役割を果たす事によって生活するのは運命とも言えましょう。

 

※なお筆者は不勉強な人間であるため、社会的動物という言葉やそれに関する質問を沢山投げかけたいという欲求に駆られるのだけはよしてください。Wikipediaレベルの知識しかありません。

 

日本人、アメリカ人、イギリス人等と呼ぶように日本人は属するコミュニティに人という文字をつけて呼ぶことがあります。当然、社会人と言うのは「社会」に属する人を指します。

 

ここで一つ面白いのは「社会人ではない人」と世俗一般的に言われる人が居るということです。また、企業に勤め社会に属しているとされる人に対して「一人前の社会人になりましょう」等と言われることもあります。

 

不思議ではありませんか?事実、論点ずらしでもありますが「地域社会」「学校社会」など社会という概念が通用するところに人は属しています。つまり、会社に勤めていなくても、成人してなくても社会人のはずなのです。

 

というわけで今回は、社会についてざっくりと、それとはなんぞや?と考えていきたいと思います。

 

社会人から、社会を

社会という言葉を語るにあたって、辞書を引くことや、或いは社会学、歴史、哲学の観点からそれを調べると言うのが、おそらく正道でしょう。しかしながら、それは私にとってとても面倒な話です。

 

なので、勉強なんてものは後回しにして、身近な言葉から社会という言葉について、意味を考え直してみようと思います。

 

日本人が社会という言葉を知るのは、おそらく小学校の学科名としてだと思います。この時、少年の心に刻まれる社会という名は学科としての意味しか持ち得ません。

 

国語や算数と違い「暗記物」とされてしまう社会科は、殆ど確かに現代の社会システムについて教示していますが、名前さえ覚えて答えれば良いだけの教科ゆえに「何も考えなくていいもの」ともなっています。

 

こうして日本人にとって社会は教えられるものになっていき、能動的に学んだりせず、今ある社会さえ知っていれば(或いは知ったふりできれば)良いというものになるのです。

 

歳を重ねると日本人はもう一つの社会を知ることになります。ここが括りきれないからこその疑問ではあるのですが、仮に「正規雇用あるいは個人事業主として働く人の集団」としましょう。所謂「社会人」の属する「社会」です。

 

流れを作って書いてきたので、改めて書くことも無いのでしょうが、社会人が属する社会という言葉は絶対的に社会を意味しているわけではありません。あくまで沢山の意味を含む社会という言葉の一部です。

しかしながら、日本人の中で、この社会が持つ力はとても強いように感じます。一方では対外的な信頼を獲得させる程に、また一方では人を忙殺し、考える力を奪う程にです。厄介なことにこの狭義な社会は、教え、教えられるものとして日本人に定着しています。

 

特に「社会は厳しい。」と日本の社会人は口を揃えて言いますが、これは「アメリカは自由の国」とアメリカ人が言うようなもので、願望混じりの本質ではない発言にすぎません。

ですが残念なことに、あたかも正しいこととして、教え継がれています。

 

さて、良い社会人ほど、社会の厳しさは本質ではないと簡単に言い切ることへ疑念を持つかと思われるので、ここで一応補足します。

三角形が三つの頂点を持つのは三角形の本質ですから必然です。よって、全ての三角形は絶対確実に三つの頂点を持ちます。そしてこのように、本質と言うには該当する全てに共通する性質でなければなりません。従って、全ての社会が厳しさを持っているわけではありませんから、社会は本質的に厳しいと言えないのです。

 

 

ここまで、不勉強な私でさえ受動的に知っている「社会」の輪郭をなぞってきましたが、それだけでも明らかになったことがあります。

 

それは、社会人が共有している社会は、大いなる社会の概念全体から見て、ほんの一部にすぎないということです。この事実に辿り着くと、興味が湧いてくるのは「社会」の本質的な部分です。

 

なのでここを一つ区切りとし、次の項でそれについて考えていこうと思います。

 

社会と個人の間には

今日も冷たい雨が降るなんてことはないですが、と書き出そうとしましたが割とあります。世知辛い世の中です。

それはさておき、社会と自分の考え方に最大でどれくらいの差が生じると思いますか?

 

暗記物社会を割とすんなり受け入れられる印象の日本人、既存のものを容認しがちな私達は、意外とその構造を見直しません。加えて「社会人として上手くやる」ことを信奉する日本人にとって「社会とのズレは生じても少ないもの」と思いがちです。

こうして「私は常識に従って生きている。」と考えて過ごす人は、時として自分の思っていることを社会の思いと重ねてしまいます。所謂「主語の大きい人」が生まれるのはこのためです。

 

「主語が大きい人」のユニークな所は、彼らに「常識は18迄に身に付けた偏見だよ。」というと「知ってる。」と返す人が居るということです。これは以前記事にまとめた「理解レベル1の人」そのものです。知っていたら主語が大きくはなりません。

( https://idep0n.hatenablog.com/entry/2018/05/01/072651 )

 

それはさておき、社会と自分には考え方に最大でどれだけの差が生じるか?という話に戻ります。この疑問に答えるため、社会の構成要素について考えてみましょう。

 

仮に貴方が99人の他人と社会の一部を共有しているとします。この時、社会における「自分」は1%ですので、社会を構成する99%が他人ということになります。すなわち最大で99%、自分と社会の間には考え方の違いが生じると言えます。

疑問の答えとして、ケースバイケースはナンセンスだと承知していますが、これが社会と自分の間に生じる考え方の差の最大値です。

 

つまり

考え方の差の最大値=それを占める他人の総人口/参加している社会の総人口

になります。

基本的に分母から1引いたものが分子になるので、余程狭い社会に生きてない限り、90%以上の差を生じうるのが道理です。

 

敢えて繰り返す。というよりも、強調させて頂きたいことが、漸く出てきました。それは

 

「社会は99%近く他人で構成されている。」

 

ということです。

確かに私たちは社会に参加しますが、これが原則なのです。しかし、私たちは社会の要求を受け、同調し、或いは苦虫を噛み潰したような顔で自らを変え、時に忙殺され…いつの間にか社会に溶け込んだと思い込んでしまいます。そして、原則を忘れ去る。

こうして時に人は自分と社会の総意を重ねて発言してしまうのです。

 

また、この発見からはもう一つ面白い見方が生まれています。それは

 

「人は常に1%社会と異なった自己像を見ている可能性が高い」

 

ということです。

これに関しては以下記事と被る話でもあるのですが、やはり、自分と他人の「世界」の違いを心得ておくことが重要なのです。

( https://idep0n.hatenablog.com/entry/2018/06/18/235052 )

 

自己に対しての問いかけが薄れた時ほど、人は傲慢な発言をします。

また、自分は真面目だと思う人ほど鬱になりやすいのも、社会において1%でしかないはずの自分が自分に抱くイメージと、世間の自分に対する評価が違うことに恐れや苛立ちを感じやすいからではないかと思います。

 

この社会に対する再考を経て私は今、自分に関わるイメージと、自分の思う自分がズレていてもいいと思っています。

いくつかの記事に書いていますが、意識高そうな記事を書いては仕事をサボったりしています。(それがバレたりも。)そういう感じでいいのです。

ただ、やるべき事は確りやっていますので誤解なきよう。

 

話は逸れましたが、私が言いたいのは

「社会が99%近く他人で構成されるので、自分の主張は常に1%程度のものと思え。」

ということです。

 

ただ、自分の主張自体はとても大事です。その理由を次の項で表現しつつこの記事を書き終えたいと思います。

 

終わりに

色々な事の本質について、自らの考えをまとめ、残そうとするこの日記活動ですが、社会のことを述べるとどうしても「じゃあ君は何をしてるの?」という思いが浮かんできます。

 

遥かに立派な先人達が築き上げてきた社会の構造に対し、文句を言うことに関して、やはりただ若いだけなのではないかと感じるのです。

 

ただ、反論というわけではないのですが、私は「じゃあ君はできているんだね?」という言葉が本当は禁句なのだと思います。

 

トリプルアクセルのような技術ならまだしも、生きる姿勢に対して「じゃあ君はできているんだね?」というカードを切っていたら、良い生き方を考えるのも目指すこともできなくなってしまうのです。

 

そして、良い生き方に関する哲学的思案を深める事もないまま歳を重ねると、手遅れになります。良い生き方について考えても、出来ることがなくなっているのです。

 

今、私は30手前、周りには30をこえたばかりの人も多いのですが、傾向として日本の会社員は32を迎えた辺りで若さに嫉妬し「なんでも出来る」等と言いだすことが明らかになりました。(個人調べです。)

 

その原因こそが忙殺と無思考なのです。18~22の間に夢とはかけ離れた安定志向の就職をし、社会とはこういうものと「なんとなく」受け入れた者は、なるべくしてそうなります。

 

最悪の事態は、こういった何も考えない人に限って生きる姿勢に関する話を「じゃあ君は何をしてるの?」で処分してしまうことです。

 

人は思っている以上に、自分を高く評価しています。歳を重ねた人の「じゃあ君は何をしてるの?」というのは、プライド守るためのカードでしかありません。ですが年齢は残酷で、この価値のないカードでプライドを守る以外に有効な手がなくなる日は来てしまいます。特に何もせず社会を受け入れた人にです。

 

だからこそ、私はこれを書き、残して、もう少しだけ好きなことできませんか?と社会に向けて問いかけていくつもりでいます。

 

…即ち、社会的無力かつ社会的無価値でも、自らの考えをまとめ、書き記して置く必要はあるのです。自分の考えを持つことは大事なのです。

 

お金ばかり追いかけて、社会的価値のためだけに努力して、明日あっさり災害で全員死んだら何を成果として死後の世界へ還るのか?

 

そう、現世に生きた成果として、自分の考えをまとめて置く必要があるのです。

 

その上で、1%、過信は禁物です。さらに言うと、相手の考えを足して練り直すことで、それが良くなることは多々あります。

 

また相手の考えを一度受け止めることで、相手を不快にさせないメリットもあるため、自分を1%と思うことも重要なのです。

 

さて、一応全てまとまったと思います。

 

もう随分と冷え込んで、イルミネーションが華やかで、また今年の終わりが来る。来年は幸せになるのか、はたまた若さを妬むおじさんの階段をただ登るのか、わかりませんがたくさんの人にとっていい年になると良いです。

 

 

それでは