【雑記】永劫回帰について
※セルフハンディキャッピングというのは「ありがちである」ことからあまり好きでもないのだが、ここに記す「永劫回帰」の解釈は私が心の向くままに知り、解釈した一例なので本質的に正しくない可能性があることは先に記しておきたい。
本題~無限と有限~
…さて、皆さん。空を見上げてみてください。そこには星が見えていたり、見えていなかったりしますよね?昼だったり夜でも真っ黒いところをたまたま見たりしますから当然です。
ただ、無限に広がる宇宙です。その視線の先にはただ見えてないだけで星が必ずあります。言ってることは、なんとなくわかると思います。
対して私達はどうでしょう?DNAの二重らせん構造が解き明かされて、まだまだ研究領域は残ってこそいますが、私たちが詰まるところ4種、RNAの話をしても総計5種の有限の長さを持つ塩基配列によって性質が決まっていることははっきりしています。
ということなので、とても低い確率ではありますが、理論上全く同じ人間が自然発生する可能性は0じゃありません。これも明解なことです。
では土、水、火、空気、生物、金属は?
星は、星はどうでしょう?
実は今、全く同じ人間が住まい、全く同じことの起きている星が、時空を無限としたならば存在する可能性があるのです。なにせ星とは物質世界のもので、物質世界のものは全て有限の組み合わせに納まります。だから無限の内側に全く同じ状態の地球はいくつも存在し得てしまうのです。
まあこれは言ったもん勝ちの超理論で、何ひとつ、証明できる由のないことなのですが、「永劫回帰」を扱う上では必要な理屈だと言えます。(あくまで私の考えです)
なぜならば、この無限と有限の関係は永劫回帰において、重要なものですから。
いくつもの地球、時間、来世
「永劫回帰」と言うのは私が惚れ込んだ(割に理解出来てるのか怪しい)ニーチェの考えた理屈です。私の理解では「輪廻転生」をはじめとする死後の救いを否定するために、もっと言うと「現世を投げ出さないため」に生み出されたものだと考えています。
人生に負け始めた時、或いは生まれた瞬間から負けていた場合「運命を受け入れる。」などと言って、ただじっと耐える人生を送る人が少なくないかと思います。明確に階級社会だった頃は特にそうです。
そうした耐えと守りの人生を送る中でも、人間というのは案外誇りを失いたがらないものです。終いには「貧しいものは搾取を許し、富める者は悪である。」という発想の元「神」を仕立てあげて信仰し始めました。そうすることで死後(来世)、救われるのは私達だと「奴隷としての生」を(解決しようと画策もしなくなり)誇れるものにしたのです。
しかしながら、無限の宇宙にはいくつもの地球が存在します。(ここは本当に私オリジナルの解釈です。文献なし。)
すると、私達が死んだらその魂はどこへ行くの?という疑問に「無限の宇宙、そのどこかにある。自分が生まれた瞬間の地球」と答えることが出来ますよね?
…つまり、来世なんてないんです。来世に救われることもありません。完全に同じ人間としてまた生まれるんです。
自分らしさのない人生を受け入れて、人のために生きるなどと大義を掲げたかのように振舞って、死後それを誇らしげに神様へ報告したとて、救いのある生に生まれ変わることなんてないんです。
それって案外、頑張ってないですからね。ただ受け入れただけ、耐えただけ、何も考えず、長い人生にはいくらでも自分を変える勇気を持つ瞬間はあるはずなのに、その都度「耐える楽さ」を好き好んで選んでいるのです。
そんな無努力いけませんよね?本来はやはり自分らしく生きるために危機感を覚えて、毎日懸命に納得の行く人生を送る策を練らないといけません。始まりに戻りますが、「永劫回帰」とは「現世を投げ出さないため」ひいては「真剣に生きる」理屈なんですよ。
まあ、あくまで私の解釈ですが…ね。
終わりに
今回は自分なりとはいえ、自分が解釈してこれはいいなと思ったものについて書きました。
哲学的なことなので正しいか?にこだわる必要は余りないと思っています。
それにしてもすごいですよね。百余年は前に生まれた人の考えた。「人生の捉え方」という「物理法則」よりも遥かに曖昧なものが今の自分に影響を与えるんですから。
私達もそれなりに頑張って、そういうものを残していけたらいいですね。
では。