厨二病日記

取り敢えず患った不治の病が厨二病でよかった Twitterは @Pott0N_mush

休暇日記、アニメを観た話x@

アニメを観た

お久しぶりです。

転職にあたり、有給消化が許されたのでまるまる1ヶ月弱休むことが出来ました。

 

そうとは言っても、引越し、偶然ですが車の買い替え、入社の為の資料揃えなどやっておかないといけないことも多く、特にご時世柄、二週間前には転職先に住んでいなければならないため、有り得ないほど暇という訳でもありません。

 

ただ、それでも働いている時より何倍も時間はある訳で、私はそれを活かしアニメを観ようかなと思いました。

 

結果、色々な感想が湧いてきたので、今回の記事はそのまとめです。

 

鬼滅の刃を観た

まず最初に観たのは、鬼滅の刃でした。

理由はシンプルで、流行り物の印象があったからです。

自分自身は流行に飛び乗る方でもなければ、逆張りをしていた時期さえありましたが、最近は「話し相手になる人間が知っている可能性の高いものを知っておくべき」との考えに変わっていて、その事もこの作品を観ようと決めた理由の一つとなっています。

 

この作品の感想は大きく分けて三つです。一つ目は「映像が綺麗」、二つ目は「敵キャラクターの事情説明が印象深い」、三つ目は「技名に子供心くすぐられる」ですね。

 

一つ目ですが、これは正直、観たら分かります。

自分が最もアニメを観ていた時期は2009年〜2016年くらいの時期で、2009、10辺りは円盤がよく売れた印象があり、それもあってか2016年頃の作品では、意図しないと作画崩壊に出会う事も少なくはなってました。

ただ、この作品はそういうレベルとは別格だと感じました。その時期で例えるなら機動戦士ガンダムUCの様な半劇場作品レベルです。これは時間もお金も充分かけた時にのみできる作品ともいえます。

話数、一話の長さ的に毎週これを放送してたのでしょうが、流石にクオリティが高過ぎるのではないでしょうか?綺麗な映像はそれだけで目を引くので、明らかに、アニメ版鬼滅の刃の最たる強みは、その映像美にあると感じました。

 

次は敵キャラクターの描写についてです。

この作品、無論、全敵ではありませんが、人が鬼になるという事を考えて作られていると感じました。

数話かけて倒される自意識のある鬼は、人間時代に認められなかったり、不自由だった所があり、今際の際で回想を出して同情を引きます。

創作における敵キャラについて、絶対悪であり極悪人である事を望む人も居るかとは思いますが、個人的には、可哀想な事情がある敵も結構好きなので、良いと思いました。

こういうキャラクターが居ると、分かりやすく感情移入して泣けるのがメリットだとも思いました。

 

最後は技名です。どれも子供心をくすぐる物だと感じました。

感想は上記の一言に尽きるので、少々自分なりの分析になるんですが、字面的には誰でもできそうな「全集中」に始まり、「呼吸」そして数字をつけた「型」の構成は、読み手に参加の余地を与える、少年漫画に必須の工夫なのだろうと考えましたね。

 

真偽はともかく、今の子供はきっとオリジナルの型とか呼吸を語りながら傘をブンブン振ってるのだろうと思うと、これだけのブームを起こしたのは納得でした。

 

さても、鬼滅の刃の感想は以上です。無限列車編が楽しみですね。

 

呪術廻戦を観た

呪術廻戦を観ました。理由は鬼滅の刃とほぼ同じです。

 

早速感想に移ります。この作品の感想は「キャラクターが良い」に尽きます。後は高速戦闘描写が良いくらいでしょうか。

 

そのキャラクターが良いについてですが、全キャラ好きとかそういう訳ではありません。私が気に入ったのは七海と東堂です。

 

特に七海が好きだったのですが、アニメ視聴後続きが気になり漫画を読んでしまいました。正直、ああなってしまうとは思っておらず。…まあ、重大なネタバレになるので伏せます。

 

七海はとても良いキャラクターです。ただ、これは邪推ですが、七海この漫画の読者層を広げる為に練られたキャラクターなのではないかな?とも思いました。

それと言うのも、七海は現代に生きるサラリーマンにとって最も共感出来るであろう「労働はクソ」という旨の発言をしているからです。

そして彼は「サラリーマン業より自分にしかできないこと」を重視して呪術師の道に戻ったと言っています。私もこの事から、彼をいたく気に入りました。同時に、羨ましくも思いました。呪術廻戦の世界で、呪術師は死を伴う危険な職業のため一概に良い仕事とは言えませんが、私も仕事に(どうせ働かざるを得ないなら)やりがいを求める方であり、七海はそれを選べる立場にあったからです。

また、七海は私と同じ労働観をもう一つ提示しています。そしてこればかりは、全てのサラリーマンが同じ様に思うかは不明ですが、そんな彼の価値観についても私と合致していたのです。

 

七海は作中で、証券関係の仕事をしていました。ざっくばらんに言うとお金をある程度持っている顧客から預かったお金を増やしてお返しする仕事。

そのうえで彼は行きつけのサンドイッチ屋に「サンドイッチを作る仕事はサンドイッチを食べて喜ぶ人に必要とされて存在しているが、証券屋はそういう類じゃない。なのに証券屋の方が稼げるのはおかしい」という趣旨の話をしたのです。

私は度々、資本主義をただのトレンドだとか流行病と言う話をするのですが、社畜として疲弊した彼、設定とは言え金融に従事する彼が、先の趣旨の発言をする事に強く共感しました。

私は七海が、お金と人間の関係を、人間優位で考えていると感じたのです。

 

呪術廻戦については、最早彼一人でお釣りが来たと言って良いでしょう。なので、感想はこれだけです。

(東堂は普通にかっこいいので、観たら分かります。あと、他にも魅力たっぷりです。)

 

ワールドトリガーを観た

ワールドトリガーを観ました。理由はジャンプ原作アニメへの信頼が高まったからです。

 

早速感想ですが、この作品の感想は「e-Sports時代を見越した作品」「前二作に比べて子供向け」「でも子供に観せたくはない」です。

 

この作品の開始時は、敵勢力の殆どが異形で、人を襲うので、主人公なそれを倒す組織に所属して戦っています。

そして、中盤に差し掛かると主人公達も組織内の等級が上がる。というより正社員の様なものになるのですが、話の都合、等級を積極的に上げなければならなくなります。その為には身内同士の訓練で優秀な成績を出す必要があるのですが、その内容が言ってしまえば「ゲーム」なのです。

VR空間でチーム模擬戦をし、実況解説がついて盛り上がる様はさながらe-Sportsの大会。個人のランクバトルまであります。私はここに架空の物語と現代とのシナジーを意識したものを感じました。

 

さて、ここで少々辛口なまとめ方をすると、この作品は世界を守る為に戦う上で、ゲームを極めればよい世界の中で、若い人間が中心となって物語を動かしています。

有り体に感じたことを言うと、それはかなり都合がいいです。

また、組織の本部付近で戦闘するのであれば、戦闘員には緊急脱出システムがあり、死ぬ事はなく。彼らの戦闘時の肉体、トリオン体は確実に意識した通り動くため、フィジカルトレーニングが必須ではなく推奨。つまり、肉体的に辛い事はやりたい程度、程々にして、訓練という名のゲームをして、出世できる世界が構築されているのです。

これは正直、年齢を重ねた人が観るには少々歯がゆいくらいの与え過ぎだと私は感じました。話自体は退屈でないので、今後も続きが出たら観るつもりではいますが、この点は頭から離れないでしょう。

 

上述の理由で、私はこの作品を子供向けだと感じました。しかし、子供に観せたいかといわれると、それもノーだと言えます。この作品はやはり、与え過ぎだからです。

 

そもそも、この作品は子供が好きになるよう出来ています。世界観作りの中で相当な数の不都合を廃している訳ですから。ただ、ここまで都合が良いと、これは面白いお話に終始するなとも思ったのです。

 

少し考えた結果、私は「この感じ」の原因をキャラクターにあると結論づけました。ワールドトリガーにはこういう風になりたいとか、このキャラクターのここは尊敬できる、手本にしたいというキャラクターが居ないのです。その原因は、やはり設定から「努力」の描写が伝わりにくいからといえ、解消されることはないでしょう。

 

ここまでが私のワールドトリガー感想なので、まとめると、この作品は子供向けに世界観を練り、現代的な要素も取り入れ魅力的に仕上げた結果、歳をくった人にとっては、若干の糖分過多を起こしている作品という感じでした。

 

最後に

今回はジャンプ原作アニメ三本の感想でした。

色々と書きましたが、どんなラーメン屋も不味いわけではないように、どの作品も面白かったのでオススメできると思います。

 

あと、改めて書く程の事でもない私事ですが、よくこんな面白いものを観たり知ろうともしないで働かされていたな、と思います。

一応、年齢的に享受する側ではないといえばそれまでですが…。

 

そんな私の休みも終わってしまうのですけれども、正直、人間毎年1ヶ月くらいまとめて休んだ方が良いと思います。盆正月休みも含めて。

 

まあこんな事を呑気に書いてしまうのも、ただ自分の力不足で、仕事や人間関係(恋愛、結婚等)に追われてないからだけなのかもしれませんね。

 

それでは。また。

 

 

 

 

 

私はカイリキーなのかもしれない

理由:ノーガードであるため

どうもガリガリオタクです。

 

タイトルカイリキーにしましたがまだギリニダンギルの方が正確な気がします。とはいえ、ニダンギルでは面白みがないというか、ポケモンをある程度知っていてもニダンギルでは目を引かないと思ったからです。

 

まあ、そのあたりはあまり関係ないのですが…。兎角最近、いくつかの会話経験から自分が余りにもノーガードである事に気づき始めたので、その話を書いていこうと思う。

 

頭が良くない

私という人間はどうやら頭がよくないようだ。

否、念の為、頭がいいの定義によって言い訳できるつもりではいるので、今記されたこの頭がよくないに関しては、極端にネガティブになって言っている訳では無いと補足しておこう。

とりあえず、自分の頭がよくない疑惑を持っていますよという事だ。

 

その理由は私の「大体全部言う」という性格にある。

例えば、私は普通の人であれば黒歴史として隠すようなこと、或いはいい歳してそんな事に挑戦的な姿勢でいては夢見がちな愚者とされる様なことをしているという事も大体全部伝えてしまう所がある。

具体的には、小説書いて投稿してるとか、YouTubeでなんやかんや出来ないか考えてるとかだ。こんな事を盛大に語るいい歳したおじさんはバカにしか見えない。しかも、相当なやり取りを重ねた相手ならまだしも、おそらくそれ程の仲でも無いと相手が思っているだろう段階で、話してしまうのだ。

これを端的に言うと、隙だらけの状態、まさにノーガードと表現出来る。

 

故にタイトルの通りとなる。私はカイリキーかもしれないのだ。特性がノーガードの。

 

相手の一撃必殺が必ず当たる

ポケモンのノーガードと言えばどんな技でも互いに必中になる特性だ。

 

ここで少しだけポケモンの話をしよう。

格闘タイプは飛行タイプを弱点に持ち、飛行タイプに強い技としては雷パンチ、冷凍パンチがあるが、その威力は低くそれこそが難点だ。

しかし、カイリキーはノーガードという特性を持つため低命中高火力の岩タイプ技、ストーンエッジを必中にできる。これはカイリキー独自の強み、ひいてはノーガードの強みと言えよう。

 

つまり現実の言動や行動がノーガードである事は、その内容次第で上振れる事もあるかもしれないとも言える。

例えば、あけすけに語ったいくつかの事が共感できる内容であれば、それは割りと心根に近い部分が共感を呼んでいることになるため、意気投合する人を見つけやすくなることも考えられるだろう。これは紛れもなく良い事だ。

私自身、ノーガードでありたいと思う理由の一つは表裏を持ちたくないからであるし、それは表裏の無い人の方が相手も接しやすいんじゃないか?と考えている部分はある。この点が少し打算的に思えて裏っぽいが、それもここに書き記す程度にはノーガードである。

 

一方、ノーガードである事はデメリットもある。先にも少し触れたが、基本的に隙だらけになるという事だ。

ノーガードの人間が何か相手に不快な思いをさせて、嫌われるような事になってしまったり、アプローチしたい相手にまで夢見がちな部分を見せて、堅実な人が好きな相手から連絡を切られたりすると、その次の手札はもう無い。隠している部分が無いのだ。

 

これはまさに一撃必殺でやられてしまうカイリキーと全く同じと言えよう。

 

ノーガードな人間にとって、こういった感じで合わないからと、離れられてしまったら本当に為す術は無い。そして、おそらく一般的にはノーガードじゃないだけでコミュニケーションの間口がひろがることの方が多いだろう。

 

そして最近私は個人的な理由で新しい人と出会う機会を設ける様にしているので、いい加減ノーガードはやめた方がいいだろうなと反省をしているのだが、まあこれはどうでもいいことだな。

 

それでもあんまり隠し事したくない

色々考えた結果、私はそれでもノーガードでいいかなと思っている。

 

頭が悪そうとか、苦労が増えるだとか、出世できないだとか色んなデメリットがあるだろうけど、気の合う人間を探せそうなのがいい感じなのだ。

 

それに願望は表に出しておく方が叶いやすいとも言うから。

ただ改めて思うのは、本当大人にはなれてないなという事くらい。

 

とりあえずそれは、まあいいか。と言いたいけれど、時間は一瞬で過ぎていくから困ったものなんだよなあ。

 

では。

蝉、ファイナル

最近暑いですね。梅雨明けして数日でみるみる気温が上昇した。そんなイメージです。

 

暑さでボケっとしていると、死んだかどうか怪しいセミが急に鳴き出してビビる、そんな事もある季節です。

 

自分にとって蝉の思い出と言えば、叔父が蝉を素手で取れる人だったため、子供の僕はそれを嬉々として受け取って、お菓子箱に詰めて穴を開けて蝉の合唱を聞いて過ごした事が挙げられます。

 

今思えば、迷惑なガキですね。

 

とりあえず、子供の僕は躊躇なく蝉やカマキリ、バッタを捕まえては、カゴに入れて持ち帰っていたんです。

 

だって、問題なく触れましたからね。

 

知らない間に触れなくなりました。好きか嫌いかでも、多分嫌いになってしまってる気がします。

 

なんででしょうね。時間が経っただけなのに。

 

そんなことふと思って、また虫のこと好きになろうかなって気持ちになってます。

 

だって、それだけのことで苦手や嫌いになられたら、流石に可哀想じゃないですか。

 

そんな訳で、毒のない、子供の頃は苦手じゃなかった虫のことは、まだよく見て、知って考えたいなと思います。

 

暑いねぇ。

防人の詩って凄い

まずインターネットタトゥーとか

自分がインターネットというものに接するようになって随分経つ。

 

悲しい事にその裏側、無論ダークウェブなどといった危険なところという意味合いでは無く、HTMLとかJavaとかCSS3みたいな話についても見識が広がるようなインターネットとの接し方をした訳では無いただのお客様な訳だが、兎角インターネット歴はまあまあ長い方になったという話だ。

 

自分が「インターネットをやる」という、あくまで結果的に、無駄な時間(とはいえ楽しんできた)の過ごし方をするようになったのは2009年頃、VIP(2ちゃんねる)とニコニコがほんのり対立をしていたりした頃で、2ちゃん自体、ニュー速とVIPそしてその他といった頃だった。

 

その頃のインターネットの気質、というよりインターネットを利用する人の傾向と言うのは、陰キャの一言に尽きよう。

2ちゃんねるには一応名前を入力する欄がある。だがそこでは名前を持つだけでコテハンと呼ばれ、浮いてしまい。個性を持つ事はリスク、否、正確には直接現実に害をなさないため、精神衛生上良くない危険性がある行為とされていた。

そこは何物でもない存在として、誰かと有意義かどうか分からない話をするための場所だったのだ。

勿論、たまに本当かつ役に立つ知識が流れる事もあるがことVIPにおいてはエンタメ要素が強く、本当に意味は無いがちょっと面白い位の情報しか得られなかった。

閑話休題、そこで最も有り得ない行為とされていたのが「インターネットコンテンツの実名利用」「顔出し」等といった自らの特定に繋がる情報の公開だ。

私自身不特定多数が見るインターネットに流れた(あるいは流した)顔情報や名前がおもちゃにされているのを何度か見た。具体的には「濡れオタク」とか。

 

今もGoogleで検索すると引っかかる位にはインターネットに「残っている」のだが、これを最近は一般に心象を悪くされがちでかつ消えないものの代表「タトゥー」と合わせてインターネットタトゥーと呼ぶようになっていること。まずはその認識をシェアしたい。防人の詩の話は、まだ先のことだ。

 

ご先祖さまってどんな人?

私はこのブログで、何度も墓参りに行く理由を話してきた。流石にここでは一言で言うと、ご先祖さまに感謝するためなのだが、実はご先祖さまが凄い人なのか平凡な人なのか、どんな顔をしていたのか、どこで生きたのか、なんで死んだのか等は一切知らない。理由は簡単。

 

「残っていない」からだ。

 

私が思うに、昔は残す術がそもそも多くなかった。或いは残そうとしても、それを保存したり管理する人が居なければ徐々に朽ちていくだけだったのだろう。

私の先祖の事は三代も遡ればあっという間に分からなくなって、世間の人からすれば「無」に近い存在だと言える。

 

私はこれを直感的に悲しい事だと思う。

 

だって、もしかしたら弱々しい母体から命懸けで産み落とされた命を、たった一人、男手一つで育てて繋いだ事がかつてあったとしても、その人生は「無」なのだから。どんな悲劇も、幸福に満ちた人生も「残らない」ことによって「無」となり何に思いを馳せることも出来ない。

 

世の常とは言え、多少憤るところではある。

 

防人の詩

もう既に、何が凄いのかは分かっていると思う。

 

そうそれは、「残った」という事だ。

 

「残った」事で、今私たちはかつて生きていた防人の悲哀に思いを馳せることが出来る。えにしはどうか?とまで問われればそれはわからないし、必要なことか?と言われると首を縦に振ることもできない。だが、できるできないで言うと、できるのだ。

 

それは凄いことだ。世界には「無」に帰る人が沢山いる。何も残そうとしなければ、あっという間に消える。

 

ただ唯一、この現代には簡単に消えない方法がある。きっと、それこそが現代を生きられる幸運に返すべきと事だと私は思っている。

 

タトゥーか爪痕か

そういう意味ではインターネットタトゥーも「残った」。時間の経過と共に誰もがそれに関心を割く時間は減ったが、今もこうして覚えている人は偶に「思い返している」。なんなら、この人はその後どうなったのだろう?とも思うのだ。

 

無論、見られずに消えて終わるログもあるとか、そんな行動に繋がらなくなる退屈な水かけはあるだろう。だがそれはつまらないので無視すると。

 

これはインターネットタトゥーを作ってしまった人が、その辺を生きる有象無象よりも確かに存在することを表しているのだ。勿論、タトゥーと言われるだけあって一般には心象のよくないカタチであり望ましい事でもない。ただ何も表現せずに生きた人間に比べると、ハッキリとした存在の証拠がそこにはあるのだといえる。

 

そうインターネットは「存在」をより長く残す可能性を秘めている。そして今、私達はそこへ自由に書き込むことが、表現する事ができるのだ。

 

そろそろ私が何を言いたくてこの記事を書いたのか、伝えようと思う。

 

ブログ、書き得です。

正直、それだけです。確かに、アカウントは自分では無い名前かも知れません。でもそれは防人の詩と何も変わりませんよね。

 

そして防人の詩は凄いんです。

 

じゃあブログだって凄いじゃないですか。

 

まあ、ブログという形式が廃れて、運営が無くなり、サーバーが消えて、或いはそもそもインターネット自体が人類の愚かさによって消えるような事があれば何年残るかなんて分からないけれども。

 

何百年か後に、自分が考えを表現したものが、深読みされてたりしたら面白いですよね。

 

私はそう思って書いています。

 

そして、沢山の人に書いて欲しいです。

 

自分という人間の考えをまとめた記事だけで更新が終わってしまっても、それはいいと思います。

クソ長い自己紹介と誰かの主義主張を私は知りたいです。

 

だって、そうするだけで自己満足かもしれないけど「無」にならない可能性が生まれるのだから。

 

うん。

 

 

 

 

ばあちゃん来たる

祖母、襲来

今日から祖母が家に来ます。祖父が死んでもう何年も経ち衰弱しているので襲来というのも仰々しい話ではあるのですが、祖母と共に親が帰ってくるとなると襲来と言わざるを得ないでしょう。

 

別に今回は親の悪口を言うつもりでは無いのですが、私は母のことを、父と祖母への接し方を見るに、一方的に相手を低く見積もって自分が世話しなきゃという使命感から強い言葉を使うタイプだと思っています。それに伴い他者の才能や可能性、能力を信じない傾向にあるので、祖母が出来ると思った事を(恐らくできたであろうはずなのに)強い言葉で咎める姿を見てきました。その結果衰えた可能性も感じています。

(あと、父の起業を押せなかったのも。確かにその器では無いと今は自分も思うけど。失敗させて離婚するルートもありだったから結局裏目ってる気がする。)

 

兎も角も、ばあちゃんを連れて親父と母が帰ってくる。最早これは襲来なんだ。心配だなあ。

 

共同生活

人間が人間と暮らす。それは必ずしもいい事ばかりではありません。時に自分の幸せを強く望む心がかち合って全く逆の結果を生み出してしまうこともあるでしょう。

 

そんな時に一家に一台欲しいのは譲歩!ですよね。譲歩に美徳を感じましょう。

 

ああ、言わんこっちゃない。また親父が祖母の介護で忙しい母の隣で好きなテレビを見る(この人も要介護者なのでテレビを見る事で価値は生まれない)事に拘って喧嘩していますね。

 

これが譲歩が無いということです。

 

色々と周り巡って考えた結果、相手に与えて損をするという可能性を恐れずに譲る。全体の調和が巡って自分に益をなす可能性を考慮に入れる。

 

この二点が重要だと私は思うわけです。

 

うん。それだけ。

草刈りをしろと言われる

※自身の親を馬鹿にする発言が出てきます。苦手な方はご注意ください。

やりません

これも多分書いたから、二度目以上になった人には申し訳ないんだけど。私は家の草刈りをするつもりが一切ありません。

 

一見して親不孝に思う方もいるかもしれませんが、仕方がないんです。簡単にその理由を説明します。

 

そもそも私は自発的な意思でボロボロに廃れていく家を良くないと思い草刈りをしていました。家主でもないのにです。と言いますのも自分、縁起というものには別段強い思いがありまして、またその頃懸命に取り組んでいたこと自体も、人に選ばれてこその事だったことも相まり、行いを良くするよう努めておりました。

 

そこで事件が起きてしまいます。自分が(おそらく)蜂に刺されてしまったのです。私は親に報告をし、巣の駆除を要請しました。当然の事です。

 

しかしながら、私の両親は両親ともリスク管理が出来ない人で、思考力も大変浅く。私の要請を突っぱねたのです。父に限って言えば、その時はお酒を飲んでテレビを観ていたからです。心底失望しました。(ハチに何度刺されても俺は死なん!とか科学的根拠の無い事も言ってましたね。因みにこの人家主で一切自発的に草刈りしません。)

 

その時私は言ったんです。もう二度と草刈りはしないと。その時は相手も感情的だったんでしょうね。頼んでないから良いと確り了承を得ました。だからしてないし、しません。これは余りにも当然。覆そうなど不道徳、神の前に裁かれて然る程の事でしょう。

それを今更になって気配りが足らんとか家に住むものの義務だなんだ言います。そんな至極ごもっともで分かりきった理屈、意地でも通しません。判断を誤った物には罰を与える。最早私の義務だと思っています。

無論私、慈悲がない訳ではありません。寧ろ愚者共には溢れ出ている迄ある程あって、草刈り業者の見積もり持ってきたら払うと言ってあります。

普通の神経と計算力、時間、コスト、リスク管理面を考えればありがとうと言って見積もりを出せば済む話。お前がやれだの頼むのが面倒だだの、頼もうと思ったけど業者じゃ出来ないよ(そんな訳あるか仕事やぞ)とか抜かして私に草刈りをさせようとします。その度私は、ああこれが死んでも治らないやつか、と思うわけです。

 

私がやってハチに刺されて死ぬという最大の裏目を引いた時の損害額、給料/year×平均寿命と数千円の比較もできないんですよ。驚きです。

 

家にはお金が無い、そりゃあ40中盤からまともに働けてない父を面倒見りゃそんな被害妄想に浸る気持ちわからなくもないが、もっと冷静さを持ってリスクマネジメントをしてください。お金持ちの真似がしたいだけとか訳分からんエモエモなこと言わんで…。

 

最後に

世話になってるんじゃないの?とか思われるかもしれませんが、学生時代より経済力がある今一人暮らし出来ることは間接的に証明されているので、状況的に実家に住んでるだけなんです。(流石にお金が貯まるため)

世話をするな。と言っても勝手にするし、それでマウント取られても正直いい迷惑です。

 

まあ、強いて言うなら親だからこんなことが言えると言うのはありますね。恋人とかだと対応は変わります。それでも草刈りは率先して業者入れたいのでそこを自発的に取り進めるとかになるでしょうけど。

 

ここまで言っておいてアレですが、そもそも自発的に草刈りしていたレベルで「共同生活」において大事なことは理解してるつもりです。他人の為に自分の時間を使う必要があるということとか。(因むと父はこれ分かってません。職を失ってからも家事とかしないしテレビ観てました。勉強もしてませんでしたね。)

 

ここまで読んだ方、寧ろ申し訳ございませんでした。世の中にはこういうレベルの世界もあるんです。逆に親への感謝が湧いたりなどしていれば、幸いです。

 

それでは

墓参りに行く理由、多分2度目

はじめに

墓参りに行った。いつもの事だ。

数年前から墓参りには一人でも行くし親とも行くようにしている。基本的に土日が埋まったり、埋められそうになる以前は必ず月一で行っていた。

 

コロナ禍になって、偶然が噛み合って、オンラインでゲームする機会が増えてから、実は何度か"自粛"してしまったけれども、お墓参りは原則自分のやるべきこととして、自分の意思で決めて取り組んでいる事だ。

 

これの理由について、手前味噌ではあるが、オカルティックではあるが宗教的ではない、ユニークで意外とロジカルな理由があるのでそれを書こうと思う。

 

それに、自分も"自粛"してしまうくらいには、やろうと決めた時の気持ちを忘れかけているので。

 

全力で物事に取り組むと、最後は運否天賦になる

全ての人間が感情を廃し論理的整合性のみによって動いても、天災や未知の死の病によって死んでしまう人と死なない人に分かれるだろう。

その采配は人間がしたのか?と問いかけた時、「正しい答え」を返せる人もきっといないはずだ。

 

仮に全国模試で毎回満点を叩き出す人間が居たとして、その人がセンター試験で満点を取ることは確実だろうか?これは正しい答えがあって「確実ではない」になる。

 

とても簡単な話、実力には運が含まれていて、全ては「噛み合わせ」に依存すると言うのが私の考え方だ。

 

そこで仮に実力が運と努力(能力)を50:50のものと定めてみる。この場合、常日頃の努力が100%であったとして運勢面が0だとその人は本来持つ50%しか実力を発揮出来ないという事になる。これは当人が社会に出て活躍するにあたり由々しき問題だろう。

また同時に、このことは実力に大きく関わる"運を掴むための行為"がとても重要であることを示唆している。

 

"運を掴む行為"と言うのは、分かり易いものとしてパワースポット巡りなどが挙げられるが、個人的にあれはあまり好きではない。頼られるパワースポット側の視点に立つと、随分不埒なやつが来たなと思うだろうからだ。何より巡りなどと言って遠くの神様に会いに行くというのは地元の因果の強い神様に対しても非礼でもある。何よりこの因果と言うのは後の話においても重要で、少し話が逸れたようになったが、この一点についてはしっかりと抑えておいて欲しい。

 

ここまでをまとめると、運がとても重要という事実の再確認。運を掴む行為をすべきという考えの伝達。そして、その行為は自らの因果に基づいているべきという主張を行っている。

時間が無い人はこの辺りだけ読んで次に進んで欲しい。

 

運命論を確立する

運を掴むにあたりパワースポット巡りを例に挙げ、結局否定したがそれにはもう一つ意味がある。

一先ず、パワースポットとは誰が決めて、どう合理的に貴方へ恩恵を返すのか?という話をしたいのだ。

 

マスメディアが定めたとあれば、まず論外だろう。これは情報の正誤や反メディア思想的な話ではなく、単純な話として「あそこに行けば運が良くなる」という虫のいい話を、メディア媒体から聞いただけで信じていると言えそうだからだ。

勿論この順序でパワースポット巡りをしている人であっても一概に全員を否定するつもりは無い。脳を通していれば問題は無いと考えている。己が確立した運命論に基づき他人に説明できるほどの理由があれば、問題は無い。

 

つまり、行いどうこうよりも、運命論を確立する事が重要だと言える。

 

そこで私が信頼を置いているもの。それが四柱推命だ。

 

元々私の中学生時代に細木数子さんの六星占術が流行っており、そこで初めて占術の存在を知ったのだが、当時は何かに本気で取り組むことも無かったため、運の揺らぎで振り回されること自体少なかった。そのため、占術についてもこんなものだろうと運命周期を把握する程度に留め置くだけだった。

 

その後時が経ち、私は全力で取り組みたいと思えることに出会った。そして努力の面で色々なことを考慮しながら物事に取り組んでいくのだが、成功するには如何せん他者の感覚によって選ばれる必要もある分野だったため、努力では足らない何かが必要だと感じるようになったのだ。

 

そこで改めて勉強しようと思ったのが占術だった。

 

無論、誰かを占うスキルの面ではなく、どうすれば運命の下ブレを回避することが出来るか、その根拠とは何か?という所に関心を持っての事なので、残念ではあるが人を占うスキルは無い。

 

話を戻す。というよりも、察しのよい方ならもうお分かりかと思うが、その勉強の結果が墓参りだった。この記事を書く理由は結局、それの詳細を伝えることだろう。

そのため、ここで一度区切りを入れようと思う。

 

短くまとめると、確固たる自分の運命論に基づいて運を掴む行為を確りすべきと思う。という意見と私の運命論は四柱推命に根ざしており墓参りをする理由はそこにある。という事を説明したので反芻頂けると有難い。

 

自らと因果のある神

お墓参りの話をする前に、簡単な「運」の話をしようと思う。一先ず重要なのは「運」が何者によって齎されるかという話だろう。

 

私の考えでは「運」を齎すのは神だ。

 

例えばの話、私が野球のバッターでサヨナラのチャンスにフライを打ち上げたとする。本来であれば平凡なフライのところ、上空に強烈な風が吹いてホームランになったらそれは運が良かったと言えるはずだ。

 

では、誰が風の行先を決めたのだろう?この場合、それは運を決めたものと言って差し支えない存在だ。

この問いの答えは何か考えた時、我々は神か、無かの選択を迫られるのではなかろうか。そして、その先は人次第だが、私は神がそれを決めたと考える事にした。

 

つまり、運には神の影響が及んでいるとしたのだ。

 

結果、運を掴む行為とは神に対して礼を示す行為だと私は結論づけた。

 

前述の結論を持って漸く墓参りの話をしよう。

 

私が墓参りをする理由は、それを自身にまつわる地の神へ挨拶をしに行くことと考えているからだ。自らと深い縁を持つ地の神、それはご先祖さまのことである。何よりここで一つ面白いのは御先祖様が神仏に昇華しているという考えはそれ程納得のいかないものではなく、オカルティックでありながらにしてその恩恵を受けようと言うのは合理的な判断であるということだろう。

 

四柱推命において運が悪い時のことを「空亡」と呼ぶのだが、これは自らの運命を担う「天の神」が不在になる事を意味している。空に神なき時だ。

これが起こる要因は簡単で、「天干」が十周期であるのに対し「地支」が十二周期なためである。

故に十二年のうち二年ほど天の神が不在となり、運気が弱まる時期となるのだ。

しかしながら、これは裏を返せば地の神はずっと自分を守ってくれているということである。そして先述の通り自身にまつわる地の神とはご先祖さまに他ならない。つまり、私の墓参りは究極、この「空亡」の影響を最小限に抑えることを目的としているのである。

 

そして今は、その究極から発展して「裏目消し」になっているとも言えよう。

 

それはどういうことかと言うと、こうして決めた以上私には、目の前で悪い事が起きた時に墓参りをしなかったせいにしたり、良い事が起きたら墓参りをしたおかげとしてしまうというような精神的な歪みが生じていてるということで、もう後戻りできないという事だ。

事実、コロナ禍を言い訳に最近何度かサボってしまったのだが妙に精神が落ち着かなかった。

 

ここまで行くと、多少如何なものかという所ではあるが、とはいえ原則ご先祖さまを敬うと言うのは悪い事ではない。また一般的に良いとされる行為が、自らの運命に対しても良いとされる行為とも言えるようなものなので、重んじる気持ちは理解して欲しいところだ。

 

さて、少し説明が込み入ってしまったが、一度ここまで全てを要約しよう。

今回の話は、運って大事だよね?から始まりそれは神様も関係するよね?を経由して、天の神様と地の神様がいて天の神様は不在になる時があるよね?という話をして、じゃあ何時もいてくれる地の神を大切にしないとね?となって、その正体がご先祖さまであるというものだ。

そして私がお墓参りをする理由は、その御先祖さまに挨拶を欠かさない事で、必要とされる運を掴む行為を成し、同時に(あくまで自分の中で)やるべき事もやらずに不満を言うということを避けるためと説明したつもりだ。

 

もっと分かりやすく、もう一度一言でまとめよう、墓参りはし得で損がない。

 

それだけの事だ。

もう随分と長くなったので、まとめに入ろうと思う。

 

まとめ

今回の記事を通して私は、論理的整合性の高い、運命論を持つことは、一見オカルティックでありながらにして、合理的な行為であるとまず言いたい。

そして、運命論にしたがって悪運を引き寄せないことが重要だと考えた時、天の神亡き自分を支えるものは何か?それは地続きに連なってきた先祖の楔、ひいては先祖という名の神様だという事も伝えたいことの一つだ。

 

故に私はお墓参りをする。自らの運命に関する事柄を蔑ろにしておきながら、何を嘆くかと言う話になる前に。

 

そうして徹底的に悪因を潰して進み、何も無い自分だと悟る時が来るなら。

 

多分それはそれで仕方ない事なのだろう。