厨二病日記

取り敢えず患った不治の病が厨二病でよかった Twitterは @Pott0N_mush

強者の文脈

導入

 

英雄達の物語において、蔑ろにされているものがある。それが強者の文脈だ。

 

ピンとこない人にも朗報で、昨今は大変わかりやすい例に富んでいる。その中でも一番わかりやすい例を紹介する。(後半観た程度であんまり詳しく知らず調べた情報で語るので検索よけにほにゃららという)

 

それは医療ドラマだ。ドクターほにゃららが終わったと思えばブラック・スにゃららと来たかと言わせんばかりに、一匹狼の医者が優秀権力者と徒党を組んで立身出世を目論む医者はヤブというテンプレートが連続した。権力を求める=悪という構図がはっきりしており、大抵権力者は最後コテンパンにやられ失脚する。

 

しかし、考えてもみてほしい。日本で医者になり権力を得るには薄汚い権力闘争もおそらくあるのだろうが何よりまず受験勉強を頑張らねばならない。

 

ドクターほにゃららでは蛭ほにゃ院長が権力者、すなわち悪として描かれているが彼だって苦学の末に医者になっているはずだ。(私にとって残念だが、どうやらそのような設定はある、一応蔑ろにされてないかもしれない)

 

しかし、私達はたった今という瞬間に与えられた情報だけで蛭ほにゃをとし、その家族を含めて不幸になるとわかっていてもコテンパンにされると快く感じるのである。

 

ドラマであればそれでよいだろう。そもそも素直に作品から心を動かされなければ勿体無い、変に穿った見方をしても意味は無いのだ。

 

ところが現実ともなるとそうはいかない。

 

現実の権力者、すなわち政治家は今どう映っているだろうか、およそ悪の権力者としてだろうというのが今回の問題提起だ。彼らは医者のように、若くして人生計画を立てその実現のため純然たる努力をし他人より優ることで強者として存在しながらも、大衆が揚げ足を取ってコテンパンにして問題ない存在とされている。

 

確かに政治家の不祥事は多く。紛れもなく問題である(ノープロブレムとはいかない)が、偶に呆れ顔で「バカだな…」と言う普通の人がいる。それは違うのだ。

 

私は自分を冷静に見るために「強者の文脈」を考慮する必要があると思う。

 

よって、今回はそれを記事にまとめていくのである。

 

忘れられた志~Forgotten will~

 

誰もが夢を叶える以前に、夢を見た。とても単純な感情が体を駆け巡った頃、誰かを助けたいだとか誰かの役に立ちたいという思いから、それが出来る仕事を探した。

 

そして政治家となり、権力闘争に追われる中で原初の想いはかそけきものとなっていった。いつの間にか自分の利益を優先していた。守るべきものが、家族がいて生活もあった。そんな中でつい魔が差して見つかった。

 

 

─もしこういうことならば、今ニュースで叩かれている政治家を流れに乗って簡単に叩くことができるだろうか、いやできない。

 

そもそも、政治家が仕事であるという事実を掴み損ねているのではないかと錯覚するほど現代は政治家を適当に扱っているように感じる。

 

冷静に考えても見てほしい、私は老後、それこそ政治家を目指せる財的余裕があるならば「絶対に働きたくない派」である。政治家を叩く人は羨むだけあって、そういう風に働きたいという主張をしていると行動から判断するが、実際はそうではない。彼等は働きたくないうえに、自分よりいい暮らしをしていそうな人を批難したいのである。

 

なんとみっともない発想か、彼等を絵にして番号を与え「ザ・ルサンチマン」としてタロットに加えてやりたくなるほど残念な考え方だ。ニーチェがこの世に生きていたら説教は1日では終わらないだろう。

 

人は想像以上に自らの世界を信じている。しかしながら、自らの世界を信じているだけという自覚はないものが多い。自分が知ることのなかった領域に落ちている苦悩や苦労は考慮に入れず目の前にあるものだけを見てしまうのだ。

 

ここ最近でそれが顕著だったのは豊田真由子議員のパワハラ問題だろう。当時公開されていたレコーダーには確かに酷い罵詈雑言が並べ連ねられており、パワハラは真揺るがぬ事実をであったが、秘書もお世話になっている支援者へのバースデーカードの宛名を間違える失礼千万なうえ、しょうもないことこの上ないミスをしている。

 

余談だがパワハラには法規制がなく、例えば化学工場において、それをすると多数の生命に関わるという大事に対し引き止めで怒号をあげるのはパワハラにならない。

 

さておいても、件における報道といえば豊田氏の凄まじい経歴を紹介した後、コメンテーターが「頭が良くても人の心が分からないのかな」等という意見を述べるのが鉄板であった。今、私見を述べると(当時秘書のミスに関する話は大々的でなかった)「一生懸命に自らを成長させてきた人が使えない秘書を引いた上に失脚したのか悲劇だな」と言ったところであり、まるで異なる

 

この違いが「強者の文脈」に対する配慮の差だ。まず述べておくのが、報道は「強者の文脈」に対する配慮が無いと言いたい訳では無いということである。報道は共感性第一であるため、最も頭の悪い人が喜ぶように作らなければならない。「強者の文脈」に対する充分な配慮を最も頭の悪い人はできないうえ、彼らは人を貶すことに快楽を感じるため、報道はそれに寄り添いやむを得ず配慮無きよう振る舞うのだ。

 

現代においても大衆はルサンチマンを抱えたまま生きている。想像力は退廃の一途を辿り報道はルサンチマンの頭を撫でる。私はこの構図がとても嫌いだ。自分の位置が明確に誰かより下で、それが優れた他人を貶しても埋めようのない絶対的事実だと認めるべき人間がそうしないのはよくない。往々にしてプライドがそれを困難にさせるが、「強者の文脈」はそれを簡単にしてくれる。では、それを読み解くにはどうすればいいのかと言うと、実はかなり簡単なことである。

 

東大に行く人が勉強に明け暮れている時、自分がどれだけヘラヘラ笑って過ごしたか思い出して、履歴書の「東京大学」を見てみたり、ハーバード大学で高度な学術トークを展開する自分を想像しようとしてみながらハーバード大学」という経歴を読む。それだけで「強者の文脈」が伝わってくる。自分がいい加減、あるいは普通に過ごしたことを思いながら、何時間もやりたくないと感じた勉強に向かっていた高校時代の強者達のことを考えれば「強者の文脈」は自然に生まれてくるのだ。

 

例に挙げた豊田真由子さんは28歳、つまり今の私と同じ歳にはハーバード大学修士過程を終えていて、5年後には33歳で在ジュネーヴ国際機関日本代表部で一等書記官として働いている。今の自分に何が出来るかを考えると虚しくなるほど凄まじい経歴だ。到底真似出来ない。

 

エリートは想像をはるかに超えて難解な仕事を若くしてこなし、知る由のない風景を眺め、未来のために働いている。私は弱者だと認識させられるが何かを恨んだり妬むことはできない。「弱者の由縁」は自分の中にあるからだ。

 

人が物事を判断するのは刹那だ。しかし人には歴史がある。時は連続していて物語には文脈が、今には過去よりの由縁がある。それは当たり前の話なのだが、判断に理解が出るのだとしたら「頭はいいけど人の心が分からない」等と言うのは当たり前のことが分かっていませんと述べるに等しい。行動は人に読まれるので最も頭の悪い人が劣等感を撫で回したかったとはいえ豊田真由子議員の件でこれを言うのは賢くない行為だったと思う。

 

終わりに

今回は政治家を少しよく言ったため、いくつかの大事なことを補完して記事を終えたい。

 

まず、パワハラ問題は揺るぎなく問題であるということだ。如何にされる側の失態が酷いものであっても、家族を含めてその人格を否定する言動は差し控えるべきであっただろう。

 

また、すべての政治家やエリートが無条件で擁護できるわけではない。そもそも豊田真由子さんの件は表現を変えると「ミスをした秘書をキツく叱った」だけである。「不倫」や「汚職」等とは訳が違うのだ。

 

にもかかわらず、実際は足元にも及ばぬ者達に「人の心が分からないバカ」と思わせるよう伝え、実際に敗北してる大衆の敗北感をぼかしてやろう。あまつさえ反骨心を奪ってやろうというような伝え方をされたことは個人の信義に反していたため擁護するような記事を書くに至ったのである。

 

私は件の受け方としてベストな姿勢を「どれだけ頑張って上へと進んだ人でも、怒りによってつまづくのか、私にも怒りっぽいところがあるから気をつけよう」だと考える。間違っても人生計画を立てる力、志しの通り進む力のあった人より自分が優っているなどと思ってはならない。

 

こうして考えると、人を責めるという行為は常に自分のことを棚に上げうるということに気づく。自分をよく見つめながら、それでも叱責すべき相手、注意すべき失態かどうか判断していきたいものである。

 

ここまで読んで下さった方、ありがとうございます。今も昔も同じかも知れませんが頑張らないとできないことをした相手を適当に人を批難する人の多いこと残念でなりませんね。

 

 

それでは!