厨二病日記

取り敢えず患った不治の病が厨二病でよかった Twitterは @Pott0N_mush

夢は彩られているか?

導入

人は寝ている間に夢を見ます。私は夢を思い出すのが好きでよくやってしまうのですけど、うっかりその映像を眺めることに集中してしまい寝そうになるのは悪癖とも言えます。

 

私は寝ている間に見る夢の話をある程度仲良くなったと思う相手によくしてしまうのですが、その反応は三者三様です。というのも、夢を覚えている人そうでない人、フルカラーの人モノクロの人など内容以前に差異が多くどうしても盛り上がれなかったり、逆に熱く語られたりなどします。

 

ちなみに私はフルカラーの夢を見ます。

 

さて、少々話は変わるのですがアラサー迄生きてみると「絵が描けるって凄い」「作曲ができるって凄い」みたいな話が数件くらい聞こえてきます。確かに凄いです。しかし、更に数件のケースにおいてその後自分にはできないと文章が続くことには疑問を禁じえませんでした。

 

「絵を描ける」という言葉には二つの考え方があります。第一に「人様に見せられるレベルの美しさで描ける」ということです。よくある考え方で私もこの意味で「絵が描ける」を捉えます。もう一つが「何らかの能力欠損により絵を描くことができない立場から見た描ける」です。

 

今回は後者についてのうんたらかんたらです。

 

「絵を描ける人ってすごい、私にはできない」という人にどんな能力が無いのか?逆にそこから見た絵を描ける能力ってどんな能力なのか?もしかしたらそれを持っていて絵を描いたり創造的な取り組みをすべきなのにしていない人はいないか?という話を展開したいと思っています。

 

この世界には二種類の人間がいる

創造する者とそうでない者だ。

 

私も文章が上手い訳では無いが、例えば以下のような文章があるとしよう。

 

『背の高い雲が見られるようになり、校庭には蝉の声がうるさく響いている。遠くには山々が連なり、そこから吹く遮るものを知らないおろしがぶわっと砂埃を巻き上げた。』

 

この文章を読んで、自分が知っている「学校(創作物に現れるものも含む)」が思い浮かぶか、文脈から読み取れる「学校」を生み出すかこそ創造性の第一分岐と言ってもいいと思う。

 

創作物に登場する田舎の学校であっても、山から遠くにあってかつ校舎まで遮るものが一切ないというのは珍しい。この文章を書いた私の意識する学校は、のどかな田園の中にぽつりと学校があるというものだ。私は読んだ人の心の中にぼんやりとでもありもしない「学校」が生まれたらそれは創造できるということだと思います。勿論、こうして情報を追加しても無いものがイメージできないのであれば創造には向かないと言えます。(絵を描くのに向かないとは言えない)

 

話を逸らすが、能力の欠けによりイメージが浮かばなくても絵を描くにあたってはスケッチ等、在るものを描けば良い話だと私は思っています。

 

描けないという人の「絵を描く」には無意識なバイアスがかかっていて「イメージを形にする方向で絵を描きたいが、想像力を持たないように感じるので私にはできないと思う。」という意味だと感じさせられることがよく起こる。言葉の面白いところです。

 

さて話を戻します。絵が描ける描けないに始まる一連の流れにおいて私が一番驚いたのは創造性に自信の無い人は、割りと頑なに創造性がないと主張すること(母数データは少ない)です。私は今までこれを言い訳的に捉えてきたのですが、そうではない可能性があるというのが今回の記事における核心です。

 

この世にはアレルギーというものがあります。とくに食品アレルギーにおいては「食おうと思えば食えるのでは?」と当人ではない者がいい加減な認識で食べさせてしまうということが起きており、問題になることがしばしばあります。

 

つまり、創造も同じなのではないか?というのが私の発見です。

 

そしてこれが本当なら想像力を働かせて創造できる人はできない人に対しアレルギーにおいて起こりがちな勘違いをしている可能性があるのです。

 

創造にはチャンスがあります。何かの拍子でこれに取り組むことを決めた人はそのチャンスをふいにしている人に対しメッセージを発しがちです。

 

しかし、それは多くの人に正しく届くとは限りません。創造について可能・不可能レベルで言うと正直85%くらいは備えている才能だと思いますが、やはり才能なのです。欠如して生まれるものもいるのです。

 

だからこそ思うのは、10人のうち8人近く(適当)が表現(すなわち絵、詩、作詞、作曲、小説、彫刻等多岐にわたる芸術活動)をしていないように思えるのは大幅な損失ということです。とりわけ最高に勿体ないのは「下手だからしない創造力持ちの人」で、私が伝えたいのは「下手」は何かをしない理由にならないよということ。

 

こっそりでいいからそういう活動をしている人まみれになるといいなと思っています。

 

終わりに

つい忘れて居ましたが冒頭に何色の夢を見るのか?という話をしていました。正直カラーじゃない人に会ったことがないので何とも言い難いのですが、創造性によってこの二種類の人間へと分けられているのではないかとも思っています。

 

私はフルカラーです。(二度目)

 

日々の喧騒と眼前の仕事、明日の生活と賃金に囲まれたくさんの創造力が死ぬ構造は、多くの人がそうするように、完成されたものとなっています。

 

創造力は夢を追い、叶えるというベストな人生だけではなく、望んだものが何も無く、指示が出た先にあった仕事に対しやりがいを見出すという生き方にさえ必要なものであるにもかかわらずです。

 

私は創造力を、どこからでも切れるマジックカットのように、どこにいても人生を生きがいのあるものにする力だと思います。たとえ誰かに強い影響を与えるでもないとしても、それでも強大な力なんです。

 

というわけで、何かを書きましょう。見る人なんて一人以上で十分です。

 

ここらで私は眠ります。

 

今日見る夢も彩られていると信じて