厨二病日記

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イメージの鎖

導入

皆さんこんにちは

…と言っても今が昼とは限りません。ブログには伝わる時間に制限というものがないですから、当然のことと言えます。

 

さて、言葉というのは不思議なもので、多くの人が「皆さんこんにちは」と聞くと、そこから少なからず昼というイメージを取り出します。また、一部の人は「皆さんこんにちは」で、実況動画配信者のようだなという、偏ったイメージを取り出すこともあるでしょう。

つまり言葉は受け手が所有しているイメージによって含む要素を変えるものなのです。

それは、時にコミュニケーション能力という概念を生み出し、特に現代人へと大きな影響を与えている性質とも言えます。

 

今回はタイトルに「鎖」という言葉を使ってみました。「鎖」とは、おそらくいいイメージのないものだと思います。きっとそれは重苦しく、自由を奪うものという感じでしょう。

そのイメージは「糸」と比べるとより明解になります。「運命の糸」なんてものはとても響きが良いですが、「運命の鎖」なんて言われた日には、何かがんじがらめにされたように感じるものです。

糸にも鎖にも絡め取られる事はある筈なのに、鎖の方がずっと重く、「負」のイメージが強くなるのは、抵抗出来そうな雰囲気、自由が奪われた時の対応が「糸」よりずっと難しそうだからでしょう。

 

この記事では、そんな言葉や或いは形状、ものの持つイメージが私達の思考にどのような影響を与えているのかについて考えていこうと思います。

(※あくまで素人的にです)

 

アフォーダンス~人と物~

今、目の前に紙コップがあります。そこには疑うまでもなく飲める水が入っていて、貴方はそれを飲もうと手に取ります。

 

どこを手に取ったでしょうか?

 

おそらく、何も考えずに横方向から掴んだ人が殆どで、少数がUFOキャッチャーのような掴み方をしたと予想します。これはなんのとんちでもないので、全くそれでよく。コップの持ち方には自由があると言えましょう。

 

では次に、貴方は無類のビール好きだとします。

そして貴方の目の前にはなみなみに注がれた大好物のビールが艶めかしい結露を垂らしながらジョッキの中で黄金に輝いているのです。

…さあ今、ジョッキを持ってぐいぐいと、喉を鳴らしてそれを飲む。

 

その時!!

 

貴方はジョッキのどこを持っていますか?

側面の大きな取手ではないですか?

 

…おそらくそうだと思います。と言うより、そうでない部分を持っていると答えても、もはや「そういう人」の括りに過ぎません。実は既に、思考には影響が与えられてしまっているのです。何故ならば、一般的なジョッキには、取っ手があるのですから…。

 

少し回りくどかったですが、私が伝えたいのは、取手のあるものはその形状からメッセージを放っているということです。そして殆どの人は、それを素直に受信して取手を持っています。勿論、悪いことではありません。寧ろ、そういったものに鈍感な方が察しが悪いとさえ言えましょう。

ただ、これは捉え方を変えると、取手のあるもの、ひいては「ものの形状」が人間の思考に影響を与えたとも言えます。

実はそうすると、少し、興味深い事が考えられるようになるのです。それは何かというと、人の本質的に自由な意思が、物言わぬ「ものの形状」から影響を受けて、その自由を制限されるということです。

 

このような取手が人間に与える影響の話は「アフォーダンス」の一例でよく使われます。(ノーマンのものです。)ただ、大事なことを言っておくと、物から影響を受けるという事柄についてのみ「アフォーダンス」と言います。思考の自由が制限されているという話は私の持論です。

 

もっとも、そう捉えていることが今回は重要です。

そもそも、「コップ」という言葉が「ジョッキ」変わっただけで、イメージしたコップの形変わったと思います。無論、ジョッキという言葉は取手のあるものを指している事が殆どですから、当たり前のことです。(ジョッキの本質かも知れませんね。未調査。)

つまり、ジョッキという言葉の段階で既に思考を制限する要素があるとも言え、ひいては行動を制限することもあると言えるのです。

 

ここで、冒頭へ返っていくと「言葉が持つイメージ」の正体が一部明らかになっていると分かります。そう、それは言葉に括りつけられたイメージ、そして、そのイメージから発せられるメッセージの事なのです。

 

そうすると言葉は、物が持つ性質や形状など全てを担う事になります。(真偽は定かでないにせよ、私はそれを事実だと思う立場にあります。)裏を返せば、言葉に付くイメージから物事の性質や形状が影響を受けることもあると言えましょう。

なので実際に、次の項では言葉とイメージが性質や形状に影響をあたえているというはなしをしようと思います。

 

一先ず、「アフォーダンス」について話すことが出来たので、本項は綴じたいと思います。

 

応用~就活のイメージ~

物や言葉が実態に影響すると言いましたが、起きて働いて飯食って寝るというサイクルの中では、あまりそれを実感できないこともあります。

 

そもそも私自身、アフォーダンスという言葉を知るまでは「取手」に指定の行動を取らされているという考えは持ちませんでした。しかし、アフォーダンスという概念を知ると、そうした考え方もするようになったのです。このことから、言葉が思考に影響を与えることは確かと言えましょう。

本項ではこの前提を踏まえた上で、「就活」という言葉について考えてみようと思います。

 

さて、前項で言葉というのは性質や形状に影響すると言いましたが「就活」はそれが大変分かりやすい言葉です。それは「就活」そのものと、仕事に就くための行動における実態や本質にギャップがあるからです。ただ、こういう事自体は、「就活」が歴史の浅い言葉であるから仕方ありません。

 

「就活」と聞くと真っ先に思い浮かぶのはリクルートスーツ姿の大学生だと思います。これは現代日本において自然な連想ですが、もう既に奇妙でもあります。

何故ならば、仕事へ就くだけのことに対してスーツを着る必要など、本質的にはないからです。そして彼らは「合同説明会」なるものに参加し、興味のある分野から、無い分野の会社にも足を運び「内定」を貰うことに必死になります。

 

もう全てが言葉のまやかしです。何も知らないで生まれ来て、初めての就職がこれでは「自我」を持たない労働者、すなわち「社畜」が産まれても仕方ないでしょう。

 

少し横道に逸れますが、私は「社畜」という言葉もまた新しく、定義が不十分だと思います。

 

実は最近、私がRTしたブログ記事の中に、最近の人は有名が身近になったせいかルーティン仕事に価値を見いだせなくなっている。満員電車に揺られるサラリーマンを社畜と言って馬鹿にしている。という一節があったのですが、私はこの一節に対してのみ、それは違うと思っています。なにせ社畜という言葉は、確かに蔑称だが、本人達もよく使います。もっと言うと、やりがいを持って会社に勤めている人も使っているのです。

おそらく対立構造のためにそうしたのでしょうが、社畜は使う人によって定義が曖昧な言葉です。今日は満員電車に揺られルーティン仕事をこなし、偶に叱られて不貞腐れていても、明日はその会社で、上を目指してアイデアを提出しよう、自学自習に努めてみようも思うならば、たとえ社畜を自称しようと、社畜ではありません。

 

もっとやる気のない、ルーティン仕事をして、ありきたりな娯楽でバランスを取っている人が、実際は居るでしょう?そういった人が、人生を無駄にしないためには「脱社畜」風潮があっても良いのです。

「夢を見るな、現実を見ろ」なんて言説は、「現実的」なものを「現実」だと思っている少し可哀相な人の言うことです。残念ながら「現実的」の素晴らしさなど、ほとんど皆知っています。否、たとえ知らなくとも可能性レベルでリスクマネジメントをするのであれば、夢みたいなことを語り、目指した後に「現実的」な所へ戻るのが正でしょう。

 

そういった意味で、先の記事を読み、夢・現実問題をシンプルな二元論にして語るのは控えるべきではないかなと私は感じました。元の話題に戻します。

 

私が思う「就活」の問題、それは本質的に自由であるはずの就労への活動が、期日や服装などの定められたものになっていることです。(一応経験者なので例外についても考慮してはいます。)もう何年もこのシステムは続き、疑いを持てど持たずとも学生はこれに参加しています。

 

雇う側も正解かと問われると首を横に降りそうな「ESの書き方」、現役社会人も鼻で笑う「ノックの作法」、こういった謎のものを生み出したのは「就活」に鎖付けされたイメージにほかなりません。

 

まさしくこれが、言葉によって性質や形状が影響を受けるということです。

 

おそらく古くは各会社と学生個人が個別で行っていた就職関連の諸々、それがインターネットの普及によって広域化し、必要なハブとして「就活」という言葉は生まれたのでしょう。

ですがそれは「受験戦争」よろしく、あらぬイメージまで取り込んでしまいました。そして、「服装は自由です」と書いても一様にスーツを着てくる「就活」となったのです。

 

ここから本項の話を一般化して、まとめに入ろうと思います。

 

まだ名前のない、共通するところが多いものに対して、新しい言葉を作ってイメージを定着させていく、そうして普遍化したものは扱いやすくなります。しかし、言葉が乱用されていく中で無いはずの形が、やり方が、なければならなくなってもゆくのです。(「就活」はそうなっていましたね?)

 

このような言葉の力は、アフォーダンスと似ていると、私は思います。

 

取手(言葉ではなくデザイン)が人間に、「持つべきところ」を提供した事で、「どこを持とうか?」と考える必要がなくなったように、就活は「どこかの会社に入る方法」だけを提供し、「本当は何がしたいか?」を考える機会を奪っている可能性があると、私は思っているのです。勿論、改めて見直すと「本当は何がしたいか?」を考えなさいとは、就活の本にも書いてあります。しかし、出来上がったイメージも、それに則した「取手づくり」も進んでしまった。と言うのが現状で、結局それは就活という「言葉づくり」にも責任があったのだと私は考えています。

 

本来は取手もなにもない扉の、取手探しに苦労して、その手前で泣いたり、勝手に踵を返したりしている人が居たら、悲しくはありませんか、もっと単純に本質を読み解けば、その扉は蹴破っていいものかもしれないのに、何も出来ずに不満だらけの生活を受け入れたらば、それは悲劇と言えます。

 

言葉は便利ですが、これだけのイメージを担うものなのです。私達は、目の前に現れた新しい言葉に対して、その解釈を慎重に行う必要があると言えるでしょう。

 

印象の先に~仕事~

最後に古くからある言葉の話をしようと思います。そう、「仕事」です。

 

仕事という言葉は、今や多くの勘違いを含んで広がっています。

おそらくは慢性的な問題なのでしょうが、そんな認識違いから真面目そうな若者が何人か死んでしまったという話も出ているほどです。どうしてこんな悲劇が起きてしまったのかについて私見を述べたいと思います。

 

そもそも「仕事」は生きるためにするものです。皆そう考えているとは思いますが、私はその大元を農業だとも考えています。

極端な話、全ての人が満足に食べられる量を生産できる省力化の進んだ食品工場ができれば、またそれを万が一無人化できてしまえば、人が働く理由は殆ど無くなるのです。生まれてから死ぬまでのご飯が勝手に湧いて来るのですから、人は好き勝手に生きられるはず。(実際は、その食品工場をメンテナンスする仕事などが残りますが、極端な話なので割愛願います。)

 

この食料問題解決世界の理屈から返っていくと、労働もお金も、実は軽い程度のことなのです。また、食える前提に立つと、欲しい、必要、認められたい、だからやりたいという、よりプライマルな欲求に返って仕事をすべきだと分かります。もっと言うと、お金が集まりそうだから意にそぐわぬ仕事を我慢するだとか、人間関係のストレスで今にも死にそうだけど簡単に辞めると周囲の目が気になるだとか、そういう事はバカの考えることだと分かるのです。

また、食料問題解決世界であっても、技術の進歩こそ遅れるかもしれませんが、通信や芸能、娯楽、芸術等は必ず発展すると私は考えています。これらはどの道人が暇を持て余せば必ず誰かがやりたがることなのです。今、私達は無駄な競争に駆り立てられています。それはとあるくだらない決め事のせいです。お金という、あまりに便利すぎたパスポートのせいなのです。

 

お金と言う概念は人も「仕事」も変えてしまいました。あらゆる欲求を満たす可能性がある紙の存在は、「取手」よろしく、人の思考する力を奪ったのです。その結果人は、農業のつらさに身をやつすならまだしも、本当に必要かどうか分からない謎の競争を産み、日々疲弊する結果となったのです。

奉仕の精神をもって生まれない人も居るというのに、間口の広い介護業界で激化する価格競争に巻き込まれる者達。芸術の才を持っているのに、安定した稼ぎに釣られて機会を失う者達。

お金が力をつけた事で、いつしか「仕事」はやりたくないこと、厳しいことをして、お金を多く獲得するための(少なくともお金と換えられる価値を要求する)ものになりました。そして、その誤ったイメージは今、見直されることすらなく悲劇を生み続けているのです。

 

その究極の姿こそ、「仕事」が上手くいかないことを原因にして死ぬ、です。本来は生きるために、農業(及び狩猟)をはじめとした「仕事」で、死んでしまうというのは、明らかに本末転倒といえます。加えて何よりも残念なことは、知性を持つ生き物と自称する人間が、自ら生み出したお金という概念を前に思考力を失っているという事実です。

お金という、人間が発明した「幸福の取手」は、思考に対してあまりに強い影響を与えてしまったのです。

 

結論を言うと、「仕事」は今、誤ったイメージの鎖を結び付けられていて、生きるためのものでなくなってきています。そして、厳しいものであるというイメージが異常に膨らんでいる状態と言えるのです。

とりわけ重要なのは、この事が職場の雰囲気を間違った方向に導いているということです。現代における「仕事」という言葉は、楽しくやっても何一つ問題のない仕事に、無駄な真剣さと緊張感を持たせ、仕事は厳しいことが必然であるように、態々印象操作しなければならないと思わせるものになっています。つまり、多くの人は、本質的にはそれほど厳しくない仕事を、勝手に厳しくして苦しんでいるのです。

 

故に私は、多くの人が「仕事」に対してもっと肩の力を抜くべきだと考えます。(ただ時既に遅く、資本主義社会は完成に近づいており、過酷であるという「仕事」のイメージも広く浸透しているので、こう考えることは焼け石に水と言えましょう。)厳しい、つらい等は、多くの「仕事」において、本質では無いのですから。

 

最後に

最後の項が長くなったので、私が問題視していることをまとめ直します。

 

「本質的につらくないはずの仕事」→「誤った仕事観を持つ人々」→「つらい仕事」

 

この変換が頻繁に行われることです。(またこれにより人が死んでいること。)

 

なんにせよ、環境が動物に与える影響を指したアフォーダンスのようなものが、言葉からも生じるということ。そうであるからこそ、ネガティブなイメージを括りつけて肥大化させるのはナンセンスであるということ、それが今回の記事で伝えたかったことです。

 

因みに私は就活に苦労して、派遣を含めて三つめの職場で今仕事に取り組んでいますが、実は最初の職場だけ、社員同士の仲が良く「仕事」をネガティブに捉えていませんでした。その事が今も、おそらくめでたい奴だと思われるような、楽しく仕事できるはずだという価値観にも繋がっています。(それが出来る職場が現存することを知ってしまっているのです。)

 

私が今回記したことは、たくさんの人にとって、かなりおめでたいものであったかもしれませんが、是非知って欲しいことでもあります。

 

特に「仕事」に関して、それが厳しい、つらいということは全く必然ではないこと、これは本当に重要です。(過労死が起きている訳ですから。)

 

非常に長くなりましたが、今回はこれで終わりにしようと思います。

 

それではまた今度

 

さようなら〜