厨二病日記

取り敢えず患った不治の病が厨二病でよかった Twitterは @Pott0N_mush

ゆとり世代と「悔しい」について

はじめに

昨今、アニメや漫画等の娯楽物業界では「転生」「チート(要約すると万能)」ものが流行っているように思う。

 

(ろくに読まずに語るので間違っていることもあるかもしれないが…)この類には「認められなかった才能の塊が異世界では最高に活用できる。」と言った。才能と能力はあるが中々認められないタイプや「才能さえなくルーチンワークに身をやつしていたが転生したらとにかく最強だった。」という、有り体に言って身も蓋もないようなタイプ等があり、個人的にあらすじ程度を知っている「異世界転生物」から考えると、最初は前者が流行っていたはずだが、今は後者が増えているのではないだろうか。

 

これは要するに「特別な才能や能力が無くても救われて最強になる話が求められている。」という事である。そして、それはこの記事の核となるものでもある。

 

私はなにも、それを都合のいい物語がどうこうだとか、創作の深みなどを騙って問題であると述べようとは考えてはいない。主人公だからといって感情を重ねて物語を楽しむことばかりが全てではないし、英雄譚とでも言えば、元より存在していた物だ。今更それを否定する必要はないといえる。

 

今回私が言いたいこと、面白いことはひたすらに「努力してない人が、才能(それは転生の際に授かったものでもある。)を用いて無双するだけの話が今、流行っている。」というところにある。

 

これについて私を含め、インターネットの発展と共に育ち、アニメや漫画といったものにお金を自由に使えるようになった人が、どう育ってきたかを考えて、それをまとめていきたい。(無論これは、私という定点から観て生じる偏見である。)

 

甲子園で負けると泣く

高校球児、特に甲子園に辿り着くような人の涙は価値のあるものだ。全身全霊の取り組みが生んだ成果に「悔しさ」が滲むことで、それは美しいものへと昇華する。

故に彼らはスポーツだけしてきた等と思われようと、社会で評価されるのだ。

 

だが、普通の人はどうだろう?

例えば、小学生の頃を思い返して欲しい。

同級生や泣かされる男の子は「みっともない」とか「ダサい」と思われてはいなかっただろうか?いや、思われていたに違いない。

そして「自分を泣かそうとするもの」は敵として距離を置き、安全圏で過ごす事に努めた者も少なくはないだろう。それは間違いではないし、「学習」の成果といえる。

 

ここで先んじて一つ結論を言うと、私は「ゆとり世代」について合理的という意味では頭がいいと考えている。それこそ、昭和のモーレツ社員などをやっていた人達よりもだ。ただ付け加えると、その後の世代、例えば「さとり世代」、さらにその先の世代は更に頭が良くなるとも予想している。

これは元も子もないことだが、世代どうこうで頭の良さを語ること自体が、ナンセンスであることは言うまでもないし、原理原則的に言えば、これからの人々は沢山の前例データを重ねて、優秀になっていくのは当然のことと考えているのだ。人類は「学習」する生き物だから。

 

そんな「ゆとり世代」において(とはいえやはり世代を一緒くたにすべきではないが)本当に問題視すべき問題があるならば、私はそれを「悔しさから遠ざかろうとすること」だと考える。それ故に彼らは、と言うよりも私達は、全力を出し切って挑戦する経験に乏しいのだ。

結果、彼らの多くは自分の真の限界や可能性を知らないまま、三十代を迎えるのだが、それこそが一度きりの人生において最も危惧すべきことだと私は考える。

 

さてもこれは私の考える「ゆとり世代」についての偏見だ。だがどうしてそう考えるのか?には理由がある。それについて、色々と意見があると思うが、細かいところは次の項で述べようと思う。

 

天道

私がゆとり世代がこうした人生を送っているだろうと思うのは、私の周辺と私自身にある。

私は中途半端な田舎生まれで、そこは現状維持さえできれば不自由することも無い地域と言える場所だ。

 

失われた十年以降、この地域の親世代は口々に公務員の安定性を良きものとして語り、私の周辺のゆとり世代は中学も半ばからは「大人」(私が退屈だと思うもの)に成りたがった。皆、合理的だったのだ。

私とその周辺のゆとり世代は危険予知をし、不測を嫌い確実性を重視して目標を定めていたように思う。中学生も半ばには「芸能人」や「プロスポーツ選手」を志すものを「子供」と捉える風潮が蔓延り、今の自分が気持ちを荒らされることの無いように余力を持って到達できる目標を立てているように見えた。

無論、それが全てではなかったし部活動に心血を注いでいる風に見える者も居たが、やはり果てしなく遠い「プロフェッショナル」の道を特別に思う者がほとんどだった。

 

そうした環境に居ると、余程の意志の力、それは例えばどんな誹りを受けても全く意に介さぬほどのものがない限り「不可能前提」が心に根付き始める。

なにより、諦めが早く来た人にとって「才能」という言葉はとても便利で、特別な人、実際に一握りの人と自分を切り分けるために私も使ったものだった。

 

そして、そんな「才能」という存在を強く後押ししたものこそが昨今の創作物といえよう。

 

そもそも、ゆとり世代が「悔しさ」を発現する(それは全力の挑戦を伴うものでもある)のが苦手なのは、努力しなくて強い奴がかっこいい立ち位置で現れる展開や急に眠っていた力が目覚めて逆境を覆す展開が増えた影響からだと私は考えている。(無論全てを物のせいにしていい訳では無い)

 

人は一人として才能の全てを知り尽くして生まれはしない。

しかしだからこそ、夢に酔い切れない合理的な彼らにとって最も正しい選択は、早くに才能を見極めて無駄な努力を可能な限り少なくすることとなってしまった。そして、それ故に「悔しい」に、「全力の挑戦」へたどり着かなくなったよう思うのだ。

そして、このことは合理的に快い情報だけを得ることを考える「ゆとり世代」がサラリーマンとなった今「最初から最強」という手っ取り早い、ひたすらの娯楽が流行っていることと結びつく。

そう、全ては「悔しくて泣く」ことをみっともないと感じる世代が生んだ必然だったのだ。「異世界チート転生ブーム」それは起こるべくして起きた必定の理なのである。

これはつまり私の主張するところ、「悔しい」の発現不足、すなわち「全力の挑戦」不足が現在起きている現象に裏付けられるということでもある。

 

端的に述べると

 

ゆとり世代」はバカじゃない。寧ろずっと合理的であるが、全く面白くない。

 

と言うのが私の主張で、それは現在の現象と結びつくよという話である。

 

確かに、苦を選ばないのは賢明だ。しかしその先は天道なのだ。本物の人間エンターテインメント、人間道の行く末にはもっと違うものがある。そういう事に気づき、目覚め、生きる「ゆとり世代」が今からでも増えることを望むにほかない。

 

終わりに

(繰り返しになるが)

痛みがなく苦もない、そんな天道を行こうとする気持ちは理解できる。しかしながら、我々は人間道にある。苦しむも必定なのだ。

 

だからもっと私の周りでも、何かに挑戦する言葉が増えて欲しい。別に仕事でなくていいし、仕事なんてものはこなすだけでもいいから。本当にやりたいことへ全力を尽くしてみて欲しい。

 

おそらくクソみたいな出来事に出会うだろう。

だがその結果、本当にやりたいことをやっている人間は「才ある選ばれた人なのだ。」などという浅い理解から「選ばれなかった私達の全力を超えて行った凄い人。」という真の理解に近づくことが出来る。その事は、世界で生きる沢山の人に対し持つべき敬意を持つ事の助けとなる。

 

決して無駄にはならないのだ。

 

もし「ゆとり世代」が手遅れならば

どうか、未来生まれくる子供達が無駄に合理的で退屈な人間に育たないことを、私は願うばかりである。

 

 

それでは