厨二病日記

取り敢えず患った不治の病が厨二病でよかった Twitterは @Pott0N_mush

【雑記】人が死ぬ時に見る景色~高齢者事故に思う~

人は辛い思いに会い、それを乗り越える

人生楽ありゃ苦もあるさ、とはよく言ったもので、否、ナンセンスなことを承知であえて言えば、世界にいる人は日本人とそうでないものだくらい、至極当たり前のことだろう等と指摘出来ぬことも無いのですが、人は必ず、苦難の時を乗り越え、そして等しき死を迎えます。

 

上に凸の部分があれば必ず下になる部分が生じる。インタービーイングに則った人生の荒波とも言われる浮き沈み。そして、死。

 

思考の暇人である私は、時折その最期の時に思いを馳せる事があるのです。

 

さても、ポルノグラフィティ(バンド名)の曲の一つ「∠TRIGGER」の一節にもあるように、命が生まれる要因は一つたれど、死に様は多種多様です。

 

病床に臥し、嘗てのことを思いながらゆっくりと人の世を後にすることが出来れば、それは恐らく幸せなことです。死が間近にあると知り考えをまとめる時間があるということは、そう出来ない事の何倍も幸運なことなのです。

飛行機事故、過労死、災害死、通り魔事件の巻き添えなど突然に、覚悟も出来ぬまま死を迎えては、どうしても未練が残ります。こういった不運な死を思えば、より先述の事を幸運と呼ぶのにも頷いて頂けることでしょう。

 

自らの人生で培った価値観、得たもの、乗り越えたことを思い返しながら、まとまった考えを持って死を迎える。可能であれば何かを遺すことが良い事だと私は考えています。

 

突然の死に向かう選択

しかし、昨今は最も愚かしく、虚しく、やり場無いもどかしさしか生まない凄惨な死の形が、まるで流行病のように連続しています。

 

それが高齢者ドライバーによる交通事故です。

 

一応私は老人を責めるわけにもいかないという道理の元に在ります。私も衰えますから、この先を思えばこそ、それは難しいのです。

 

ただ、事故そのものにはどうしても「あってはならない」という考えを持たずにはいられません。それこそ、少し前の生意気で自分もまた当事者になる可能性を考慮しない私であれば「老人が若い者の命を奪うのは至高の無駄だから、先手を打って老人を…れ」と言っていたかも知れぬほど、深い憤りを感じます。

 

その憤りは今、方向を変えて「同様の事故が起きぬよう自分は何ができるか?」「どんな対策があれば防げるだろう」というものになっています。

 

そう感じる、最も大きな切っ掛けは突然の死とその恐怖、そして亡くなってしまった加害者老人の人生(加害者老人が生き残っているケースも多々ありますが…)を考えたことでしょう。

 

 

先述の通り、人は艱難辛苦を乗り越えて生きています。

 

また、私は交通事故で同級生を亡くして以来、その子が生きられなかった「余分」を生きていると考えて「主観的に辛いこと」を「余分な苦労」と軽減したり、「喜び事」には有難さを増幅させて精神を処しているのですが、そう考えると時折、「わざわざ生きているな」と感じることもしばしばあります。おそらく、本当にそうなのでしょう。

 

何が言いたいかというと、加害者老人は「わざわざ生きて艱難辛苦を乗り越えた果て」に居るのです。 

 

 

更に加えると、私が退屈な会社員となって以降、表現者を過剰に尊ぶ理由の一つに「非表現者は歯車であって七割位が似たような感じで生きている。」という感覚があるのですが、そうすると加害者老人と私は少なからず似た者同士であると言えます。

つまり、私が今経験している嫌なことや、かつて乗り越えたことを加害者老人も持っていると言えるのです。

 

いくらなんでも簡単に失いたくないですよね?

 

しかし、高齢者ドライバーの事故はいとも簡単にそれを捨てさせているのです。

 

例えば、自己責任とはいえパニックに陥って迫り来る壁や何某に抵抗出来ず。整理もつかぬまま死んで、その上悪口を言われるなんて私は考えただけでゾッとします。けれども、それは実際に起きているのです。

 

虚しいですよね?

 

今、とりあえずここまでを読んだ方の中に、少しでも考え方が変わった人がいたら幸いに思います。

要するに、当事者意識、被害者への同情もあるとは思いますが、加害者に感情移入して考えることも重要だ。という話なのです。

 

そうすることで、自分の人生がどんな風景で閉じるのか、自分が高齢者になった時にどういう未来を想定して、選択するのか、その先に不幸な突然死のリスクを考えられるようになることが、こういった事件の被害者、或いは加害者に報いることだと私は思います。

 

終わりに

高齢者ドライバーによる交通事故の加害者。

 

彼らが人を傷つけたり、あやめたりしてしまった以上、非難されることは仕方ないことかもしれません。

特に加害者老人が死亡した場合はまだしも、生きているケースも多々あり、その場合は生きて罵詈雑言に晒されることになります。

 

確かに、加害者老人は事故を起こし多大な迷惑となりました。特に、幼い命が犠牲になることは不条理極まりないことでしょう。

しかし一方で、長く生きたという事は、いま私が感じている不安や、苦難の類を乗り越えた人であり、また社会貢献度もおそらく高い人なのでもあるのです。

 

そういったことを加味した上で、叩くばかりでなく、自分に置き換えて考えることが大切なことではないかと思います。

 

以上、また1000文字程度にできなかった。

 

私でした。それでは